No.269 ( 2017.7.29)


  読売テレビ「ミヤネ屋」はなぜ高須院長に謝ったのか。

国会議員免責特権以前に、批判と名誉棄損は違う。

ならば僕も、自作の映画を陳腐と言われたら名誉棄損で訴えることができる。批評は成立しなくなる。

謝った理由はスポンサーだからなのか。

ならばこれは、資本主義経済におけるメディアのとても大きな問題を示している。

少なくともワイドショーレベルの話ではない。

No.268 ( 2017.7.10)


  加計学園問題の国会閉会中審査を見ながら、最大のキーパーソンである加計孝太郎理事長の証人喚問を、 なぜ誰も要求しないのだろうと考える。
現段階では証人喚問どころか、加計理事長の声すらいっさい聞こえてこない。メディアの報道もない。
自宅に突撃された森友学園の籠池泰典前理事長に比べたら、扱いがあまりに違う。不思議だ。
誰か理由を教えてほしい。

No.267 ( 2017.6.21)


  今日のNEWS23でOAされた「籠池夫妻ドキュメント」、もっと長く観たい。この視点は本当に重要。

90分バージョンで劇場公開したら、絶対に観に行く。

19日には加計学園の新たな内部文書を、NHKクロ現がスクープした。

東京新聞の望月衣塑子記者もすごい。メディアは舐められ過ぎた。甘く見られていた。

ならば巻き返そう。まだ間に合う。まだ遅くない。心から願う。

あなたたちに日本の未来は託されている。

No.266 ( 2017.5.14)


  明日(15日)からしばらく日本を離れます。前半は台湾の桃園映画祭。

後半は北欧とロシアあたりをうろうろ。帰国は6月8日くらいの予定。

メールは一日一回くらいはチェックできます。

No.265 ( 2017.5.4)


  よど号ハイジャックのメンバーの一人で、平壌に在住する若林さんから届いたメールの一部を、了解をもらったので以下に貼りつける。 ミサイルの不安や恐怖を煽るばかりの日本の政治家とメディアに対しての言説としては、大筋でまったく同意する。(救援577号(救援連絡センター発行)に掲載予定)

「一触即発の朝鮮半島!」で不安の日本、祝日で「焼き肉・歌・踊り“野遊会”」のピョンヤン-この落差が示すもの

  今日、4月25日は「朝鮮人民軍創建85周年」、日本ではこの日を「一触即発の朝鮮半島」、 その運命を決する日であるかのようにマスコミ・大騒動が続いている。 この祝日に「核実験」など朝鮮の「軍事挑発」があればトランプはシリアにやったように核施設攻撃に踏み切る、 この「トランプの暴走」で韓国、日本は朝鮮からの報復攻撃にさらされる運命に!

  実際、巡航ミサイル積載の駆逐艦群を引き連れ、戦略爆撃機満載の空母カールビンソン号を中心とする打撃艦隊群が朝鮮近海に迫り、 海上自衛隊が共同訓練までやる。安倍政権は各自治体向けの「弾道ミサイル落下に備えて」のマニュアルを配布しているというから、 日本の国民もいやがおうでも不安に駆られることだろうと思う。

  他方、「一触即発」現場、朝鮮はどうか?この日は抗日遊撃隊という人民の武力が初めて生まれた日として、 正規軍である朝鮮人民軍の建軍節、朝鮮の人々にとっては祝日だ。

  今日は朝から晴れておそらく野山や街の公園では家族、職場仲間の野遊会、定番は「焼き肉パーティ+歌と踊り」、その輪、輪、輪だろう。 日本人村近隣の高射砲陣地など人民軍兵営からはカラオケ合戦風の流行歌が遠く聞こえ建軍節を楽しんでいる様子がわかる。

  4月25日の日本とピョンヤンのこの落差!これはいったい何だろう?

  前日、24日放映のBSフジのプライム・ニュースではこんなやりとりがあった。 「トランプが軍事攻撃に踏み切るレッドライン(最後の一線)は何か」? 「それは朝鮮の核が米本土に届く大陸間弾道弾を実戦配備する時。だから開発配備前に先制打撃を断行するはず」という議論になった。 しかしこれには強い疑問が呈された。

  「いま朝鮮が保有する中距離ミサイルは米国には届かないでしょうが日本には届きます。 米国が危なくなる前に打撃するといいますが、韓国や日本はとっくの昔から危険にさらされていたのではないですか?」と。当然の疑問だ。

  こうしたことを米政府に対して一言、日本政府が言うべきではないのか?という質問に中谷元防衛大臣は答えをはぐらかすことに終始した。

  いつ、どのように朝鮮の核・ミサイル施設を攻撃するか? それを考え、決心するのは日本政府ではなく米トランプ政権だ。 「一触即発の朝鮮半島」という「トランプの暴走」不安に直面した日本国民だが、 その不安の正体は、日本政府が自分の頭で考え決心できることは何一つないことにあるのではないか? このことを多くの人が実感したのではないか。

  他方、朝鮮の平穏ぶりは「戦争抑止力」を持った自信もあるが、いざとなれば「祖国防衛」の戦いに参加する! という自分の考えと自分の決心があり、自分がどこで何をすべきか、軍人は持ち場につき、働いている人も赤衛隊に、 銃をとらない人は退避場所にと自分の動き方までふだんから慣れ親しんでいる。だからカールビンソンが来ても戦争開始の直前までふつうに仕事をして遊ぶ。

  前号でも述べたが、「北朝鮮の核とミサイルの脅威」は米国が朝鮮との戦争状態を終わらせる、 具体的には停戦協定を平和協定に転換すれば解決するという性格の問題だ。日本が「一触即発の朝鮮半島」の不安から解放される道は、 対朝鮮政策を米国委せにせず日本式のやり方で朝鮮との対話、友好と平和への道を主体的に開くことだ。 日本には「拉致」対話というチャンネルがあり、これを契機に日朝ピョンヤン宣言にうたわれている 「敵対時代を終わらせる」ということを実際の行動に移すこと、日本の行動によって米国に朝鮮との平和協定締結への転換を促す、 これくらいの勇断を下す。今回の事態をすべての日本人がこのことを真剣に考える契機にすべきではないかと思う。

ピョンヤン かりの会 若林盛亮

No.264 ( 2017.3.1)


  本気でエイプリル・フールだと思った。教育勅語を教材に使うことを否定しないとの答弁書を安倍内閣が閣議決定。 教育勅語の本質は、親孝行や友達を大切にせよなどの徳目ではない。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」。 要するに「国のために命を捧げよ」だ。これが教育の理念になる。

でも解せないのは、なぜこれが大きなニュースにならないのかということ。ただし、大きなニュースにならないメカニズムはわかる。 多くの人が関心を示さないから。多くの人が別に問題ないと思っているから。

仕方がない。主権在民なのだ。多くの人が望むのなら仕方がない。でも後ろを振り返って思う。気がつけばこんなに遠くに来てしまっている。

No.263 ( 2017.4.2)


  少しお酒を飲んで渋谷の街を歩いていたら、三味線の音が聴こえてきた。

路上で一人の男が弾いている。立ち止まって聴く人はほとんどいない。みんな忙しい。

でも僕は帰るだけ。立ち止ってしばらく聴いた。男は無表情で三味線を弾き続ける。

やがて一曲が終わった。とても良かった。もう一曲。それも良かった。CDを一枚買った。

1500円。男は小声で「ありがとうございます」と言った。家に帰ってCDを聴いた。

やっぱり良い。東京月桃三味線 坂田淳。何度も聴いている。

No.262 ( 2017.1.30)


  明日からロッテルダム映画祭。

帰国予定は2月4日。

電話も一応は繋がるけれど、時差があるのでメールのほうがありがたいです。

No.261 ( 2017.1.21)


  毎年この時期は、確定申告のための支払調書が出版社やテレビ局から送られてくる。 その整理だけでも大変な時期なのに、今年はそれにマイナンバーを申告するための書式も各社から送られてくる。

申告方法は「裏面だけをコピーして台紙に貼れ」とか「両面コピーしろ」とか「ナンバーだけを書いて送れ」、 そして送付の方法もレターパックとか簡易書留とか普通郵便とか、とにかくバラバラだ。 しかも(マイナンバーの取り扱い代理店なのか)名前を聞いたこともない会社や法人から、申告の依頼が来ることが多い。

仕方なく購入したコピー機を横に、送られてくる依頼書の指示すべてに目を通して、 カードをコピーしたり切ったり貼ったり書いたり、とにかく煩雑だ。 だからこのコラムで、カードの表面と裏面を写真に撮って公開したくなった。 知りたい人は見てくれればいい。でもそれはダメらしい。 なぜなら悪用される可能性があるからと説明されるけれど、ならばこれほど安易に、 知らない会社からの申告依頼に応じて送ってしまっていいのだろうか。

とにかくひどいシステムだ。制度導入に反対していた斎藤貴男に年末に電話して「これはひどい」と訴えたら、 「もう決まってしまったから仕方がないよ」と静かに返答された。 沈黙していたのだから、今さら文句など言える筋合いではない。 マルティン・ニーメラーがナチス政権発足の過程について書いた「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」を思い出した。

No.260 ( 2017.1.11)


  今年は予定通り進むのなら、いろいろ大きな仕事があるので、 年が明けてからずっと、何となく気持ちが落ち着かない。まあ予定通りは進まないだろうとは思うけれど。
とにかく今年もよろしくお願いします。

(情報)
1月11日夜、NHK総合『クローズアップ現代+』(夜10:00~)に出演します。
「あなたのペットは大丈夫? 追跡 ペットビジネス・遺伝病の闇」 nhk.or.jp/gendai/

No.259 ( 2016.12.28)


  2016年もあと4日で終わる。今年もいろいろあったけれど、やはり映画に戻れたことが、自分にとってはいちばん嬉しくて大きい。

だから弾みがついてしまった。来年も作ります。目指します。今年観てくれた人、読んでくれた人、本当にありがとうございます。来年もよろしくお願いします。 ……世界も日本も、とてもじゃないが良い年にはなりそうもないけれど。

No.258 ( 2016.11.13)


  つまり、分断と集団化は同時進行的に起こる。決して相反する現象ではない。 トランプ当選でアメリカの分断が露わになったとのフレーズはよく聞くけれど、 これはアメリカで集団化が進行していることも示している。 隠れトランプという存在が示すように分断の要素はあくまでも個人ではなくグループであり、 それぞれのグループが集団として連帯や結束を高めようとする過程で、集団の分断が進行する。
  ただし、この傾向は今のアメリカだけに起きているわけではない。 世界規模だ。なぜならこれは人類の本能なのだから。

(クーリエ・ジャポン連載最新号に掲載予定の文章から抜粋)

No.257 ( 2016.10.7)


  10月6日から始まる釜山国際映画祭で、『Fake』は8日、11日、13日に上映される。 詳細はここ

そのあとは京都国際映画祭

『Fake』の上映は14日20時から。『A』『A2完全版』は15日16時55分から。
そして『ミゼットプロレス伝説』は16日10時15分から。会場はよしもと祇園花月。

すべて大橋未歩さん(テレビ東京)や奥山和由さん(プロデューサー)とのトーク付きです。
サプライズゲストも来るかも。

No.256 ( 2016.9.11)


  8月半ば過ぎ、『Fake』舞台挨拶で沖縄の桜坂劇場に行った。到着した翌日は高江に行った。 座り込みしている多くの人たち。もちろんおじいやおばあが中心だけど、若い世代も少なくない。土砂を運ぶトラックは、 数十台のパトカーや機動隊員が乗るカマボコ、そして公安関係者が乗る何台もの乗用車などで護衛されている。 アメリカ大統領以上の警備だ。誰も土砂を運ぶトラックなど襲撃しないのに。

その経費の原資は日本国民が治めた税金。世界で最も高価な土砂です、と誰かが悲しそうにつぶやく。 日差しは強い。汗が流れる。座り込みに対峙するのは機動隊員と警備会社のアルバイト。アメリカ人はどこにもいない。 ゲートの奥の冷房が効いた施設にいるらしい。まるで植民地だ。

滞在中の夜は、藤井誠二さんに案内されて沖縄のダークサイドを満喫した。久しぶりに岡留安則さんに会った。少し元気がない。 でも、こんな時代だからこそ「噂の真相」スペシャルを刊行したら、と提案したら、「よしやろう」と言ってくれた。

沖縄は光が強い。だから影も濃い。とても刺激的な4日間だった。

No.255 ( 2016.7.29)


  ふと気がついたら、ずいぶん長くコラムを更新していなかった。

書くという行為は呼吸のよう。今は映画関連で、吐く息が多いのだと思う。

でもあまり吐きすぎたら酸欠になる。

そろそろ吸わないと思いつつも、なかなか深呼吸する機会がない。

No.254 ( 2016.6.29)


  6月29日、滋賀県立玉川高校が、一学期末試験の保健の問題と解答が生徒たちに事前に漏洩していたと発表した。 教師が教卓に置き忘れた問題と解答が、生徒たちの無料通信アプリ「LINE」で広まっていたことを、校長は会見で説明して謝罪したという。

僕はこのニュースをネットで知った。ソースは産経新聞。時事通信も配信したようだ。 この日の夕方の日本テレビのニュースでも放送されていた。他の媒体がどのように扱ったのかはわからない。

でもさあ、これって全国の人が知るべきことなのか。地方の一高校の期末試験。 新聞やテレビのニュースで報道する理由が、僕にはさっぱりわからない。

No.253 ( 2016.6.16)


  アメリカでは大統領に予期せぬ事態が起きたときは副大統領がその権限を引き継ぐけれど、 都知事にもこのシステムを応用するわけにはゆかないのかな。ならばリオのオリンピックにも余裕をもって参加できるし、 4年後の東京オリンピックの最中に選挙という事態も回避できる。

  とここまで書いてから、今の副知事は誰だろうと気になった。ネットで調べたけれど、 都の職員から選ばれた人たちらしい。現在は3人。うち二人はもうすぐ任期が切れる。いずれにしてもこの三人から一人を決めてもらう。 選挙でまた有名人やらタレントを選んで同じことを繰り返されるよりは、このほうがずっといいと思うのだけど。

No.252 ( 2016.6.11)


  昨日は札幌。今日は大阪。気温差が十度以上ある。

……そろそろ小説を書きたい。でも文芸誌のハードルは高い。

No.251 ( 2016.5.20)


  新作映画「Fake」の公開に併せて、「A2」完全版もレイトで上映されることが決定した。 2002年の公開時には諸事情あって封印せざるを得なかったシークェンスを、14年ぶりに復活させた。

  プレミアムの山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映したとき、 多くの人が最も印象に残ったと感想を述べてくれたシークェンスだ。僕にも思い入れがある。 あのときの夕焼けは今もよく覚えている。

  日程は下記のとおり。 「Fake」はもちろんだけど「A2」完全版も(最近気づいたのだけど僕の映画のタイトルは、 アルファベット数字しか使っていない。意味を排除したいのだと思う)、多くの人に観てほしい。 決して今さらではない。今だからこそだ。

No.250 ( 2016.5.10)


  高野孟さんの「中国脅威論はどこまで本当か? 哀れマスメディアの機能不全」、短いけれどとても秀逸なレポートだ。 多くの人に読んでほしい。読み終えてからしばらく考えてほしい。

http://www.mag2.com/p/news/188217

No.249 ( 2016.4.15)


  「貞子vs伽椰子」を早く観たい。



ちなみに貞子の呪いのビデオに映る部屋は、かつて二十代のころに暮らしていた中目黒のアパートだと思う。数年前に取り壊されたけれど。

No.248 ( 2016.4.13)


  これはひどい。ひどいという形容詞が物足りなくなるほどにひどい。でもひどい以外に思いつかない。

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/288094

  「日本国はまさに天照大神の子供の神々様から始まって、神話の世界から生まれて、そして神武天皇が即位なさって、 神話が国になったのが日本です」

右や保守のレベルではない。ほぼファンタジーだ。でもこれはファンタジーな催しではない。この国の最高法規(つまり最も重要なリアル) である憲法を変えることを目的として、現首相と官房長官が「盛況に開催されますことに心からお慶び申し上げます」と祝電を送るリアルな催しだ。

No.247 ( 2016.3.19)


  「Fake」についての情報がメディアやネットなどに掲載されるとき、 「佐村河内氏と新垣氏への見方が180度変わると監督は語っている」というようなまとめ方がとても多い。

  僕はこんなこと言っていない。言うはずがない。だって前回のコラムでも書いたように、 「黒と白」や「敵と味方」などのダイコトミーは大嫌いだ。もしも180度変えるのなら、「黒と白」が「白と黒」になるだけだ。

  これらの情報のソースは昨年5月に報道された日刊スポーツだが、オリジナルの記事には、 「森監督は、今回の作品について周囲に「佐村河内氏と新垣氏との関係や、 2人に対する見方が180度ひっくり返るようなものになる」と話しており、」と記述されている。 要するにその「周囲の誰か」(僕は知らない)が日刊スポーツの記者に語ったらしいフレーズが独り歩きし、 さらにまとめサイトなどでは、「森達也監督が語る」にされてしまっている。ならばこれも広義の「Fake」だ。 ただし、見方が変わることは否定しない。そうでなければ映画を作る意味はない。でも180度ではない。そんな下品な言葉は使わない。

  さすがに公開前のこの時期は、メディアやネットが気になる。特にSNSでは、 「映画には興味はあるが、佐村河内に金が入ると思うと行きたくなくなる」的な書き込みが目につく。

  4年前に「311」を発表したときも、「遺体をさらして金儲けをする鬼畜監督」などとさんざん書かれたけれど、 こうした書き込みをする人たちは、ドキュメンタリー映画の市場規模をもう少し理解したほうがいい。難しい話ではない。 シネコンで上映などまずありえない。ベースは単館で、動員1万や2万人で大ヒットの市場規模だ。 入場料はひとり1500円前後として、その総額のほぼ半分は劇場に分配される。残りの金額から映画の制作費や宣伝費や スタッフのギャラを捻出しなくてはならない。しかも制作期間は数年。儲けなどまずない。赤字が普通だ。 金儲けをするならば他のことをする。みんな歯を食いしばって制作している。ドキュメンタリーが好きだからだ。

  ……まあこんな書き込みをする人たちのほとんどは、 まず劇場に足を運んではくれないから放っておけばよいのだけど。今回はあまりに度が過ぎる。

※ 映画「Fake」についての問い合わせは、配給宣伝会社「東風」にお願いします。

No.246 ( 2016.3.10)


  誰かが笑う。それをニコニコと書くかニヤニヤと書くかで、受ける印象はまったく違う。 そしてこのとき、ニコニコとニヤニヤのどちらが真実でどちらが虚偽かなどと論じても意味はない。 ゲラゲラやヘラヘラの可能性もある。これを記述する人が、その笑い(あるいは笑う人)に対して、 どのような意識や感情を持っていたかで、表現はまったく変わる。嫌いな人ならば僕はニヤニヤと感じる。 好意を持ったならばニコニコと書きたくなる。それが情報の本質だ。 メディアに限らず僕たちが認知できる事象の輪郭は、決して客観公正な真実などではなく、あくまでも視点や解釈だ。 言い換えれば偏り。つまり主観。客観性や中立性など存在しない。だって時代や国が変われば、客観性や中立性の座標軸は変わる。 だからこそこれに依拠することは、とても不誠実で無責任で危険なのだ。

  もちろんメディアに帰属する人ならば、できるかぎり客観性や中立性を標榜する姿勢は正しい。 でもならば(あるいはだからこそ)、決してそこに到達できないことを強く自覚して、その引け目や後ろめたさを抱え続けながら、 記事を書いたり映像を編集したりしなくてはならないはずだ。 でもどうやらここ数年、特にメディアの最前線において、 「真実」とか「真相」などの語彙が(その対極にある「虚偽」とか「捏造」とか「やらせ」とかも含めて)、 とても安易に消費されるようになっている。

  メディアは社会の合わせ鏡だ。ならばこの傾向は、社会全体が安易な二極化を求め始めているとの見方もできる。 社会だけではない。政治もこの二つと相互作用的に存在する。つまりレベルが同じなのだ。 もしもこの国のメディアが三流ならば、それは社会が三流であることを意味し、政治も同様であることを示している。

  こうして社会とメディアと政治は、互いに刺激し合いながら、少しずつ同じレベルでスライドする。 楽なほうに。売れるほうに。票が集まるほうに。真実と虚偽。黒と白。二極化は楽だ。だって曖昧さが消える。 すっきりする。右と左。正義と邪悪。敵と味方。悪は叩け。正義は勝つ。やがて集団の熱狂に身を任せながら、僕たちは同じ過ちをくりかえす。

  肩書きの一つは映画監督だけど、4人の監督の共作である『311』を別にすれば、 『Fake』は15年ぶりの新作映画ということになる。もちろんこの期間、撮りかけたテーマや被写体が皆無だったわけじゃない。 でも結局は持続できなかった。数年前くらいからは、もう二度と映画を撮ることはないかもしれないなと内心は思っていた。

  でも今年、やっと形にすることができた。映画で大切なことは普遍性。 単なるゴーストライター問題をテーマにしているつもりはもちろんない。誰が彼を造形したのか。誰が嘘をついているのか。 自分は嘘をついたことはないのか。真実と虚偽は二分できるのか。そもそも森達也は信じられるのか。

  …視点や解釈は無数にある。もちろん僕の視点と解釈は存在するけれど、最終的には観たあなたのもの。 自由でよい。でもひとつだけ思ってほしい。

  様々な解釈と視点があるからこそ、この世界は自由で豊かで素晴らしいのだと。

No.245 ( 2016.2.12)


  10日の衆院予算委員会で、放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合に 電波停止を命じる可能性に触れた高市早苗総務相について、安倍首相は「法令について従来通りの一般論を答えた」と追認した。

このときには民主党の大串博志議員が、「安倍政権になって番組に口を挟もうとする態度が非常に多い」として、 首相が2014年11月の衆院選前にTBSの「ニュース23」に出演中、オンエアされた街頭インタビューに対して 「(テレビ局の)皆さん(人を)選んでおられる」「全然、声が反映されていません。おかしいじゃないですか」と激高したことに言及した。 もちろん首相はこれを圧力だとは認めない。政治的な公平性が担保されていなかったとの認識だ。 さらに「安倍政権こそ、与党こそ言論の自由を大切にしている」と言い切った。

ニュース23のこの街頭インタビューを収録したスタッフの中に、実は大学の教え子がいる。先日会ったとき、 「あれ、人を選んでなんかいないです。撮る前は半々くらいかなと予想していたけれど、批判する人が予想以上に多いなあと驚きましたから」と教えてくれた。

言論の自由とは何か。なぜ大切にしなくてはいけないのか。政治的な公平性とは何か。権力者はどのように対処すべきなのか。 ……どうすればわかってもらえるのだろう。安倍政権の議員たちにではない。 それはもうあきらめている。彼らを支持する多くの人たちに。でもそれを伝えるべきメディアは今、自民党議員の不倫問題で大騒ぎだ。

No.244 ( 2016.1.29)


  2月10日、高円寺ドキュメンタリー映画祭で『A2』完全版が上映される。
上映時である2002年には諸事情あってカットした場面が、そっくり復活する。
僕にとっては、とても重要で思い入れのあるシーケンスだ。一人でも多くの人に観てほしい。
上映後は田原総一朗さんとトーク。完全版においては重要な意味を持つサプライズゲストも登壇します。
高円寺ドキュメンタリーフェスティバル

あと、満を持して発表した『チャンキ』。分厚くて値段も高めだけど、とにかく読んでほしい。
絶対にページをめくる手が止まらなくなる。

No.243 ( 2016.1.20)


  新作映画「Fake」の編集が大詰めです。

多くの方への賀状やメールの返信が滞っていますが、今しばらくお待ちください。

申し訳ありません。

No.242 ( 2015.12.17)


  20日朝、NHK日曜討論に出演します。

NHK日曜討論

テーマは「テロとどう向き合うか」。

No.241 ( 2015.12.14)


  こんなときだからこそこの動画をあらためて見る。

何度も見る。繰り返し見る。

世界中の人たちが抱き合うまで。

No.240 ( 2015.11.29)


  明日30日からハノイ。ベトナム政府が主催するAsean Photo Contestの審査員。新作映画編集で忙しい時期だけど、 僕にとってベトナムはとても思い入れのある国なので承諾した。

でも事前に送られてくるはずの審査スケジュールがまだ送られてこない。出発は明日なのに。政府の招待状もまだ来ない。 さっきノイバイ空港で迎えが手渡すとのメールが来た。招待状なのに。まあこれも含めてベトナム。帰国は10日の予定。

No.239 ( 2015.11.16)


「このような非道卑劣なテロはいかなる理由でも許されず」

  これは仏テロを受けて、トルコ訪問中の安倍首相がオランド仏大統領に送ったメッセージの冒頭。 この「絶対に許されない」式のレトリックはきわめて日本的だ。だって誰も「許してやれ」などとは言っていない。 言うはずもない。でも日本では(重大な事件が起きるたびに)「許せない」との述語がまず冒頭にくる。

それはともかくとして、安倍首相以外にも多くの各国首脳はフランスへの連帯を示し、テロとの対決を強調した。 世界のメディアも含めて、「テロの根絶」「テロとの対決」などの言葉が一気に氾濫している。

要するに「テロに屈するな」。これはまさしくシャルリー・エブド襲撃事件の際に、多くの人が口にしたフレーズだ。 そして日本では、後藤さんと湯川さんがISに拘束されたことがわかったとき、現政権が盛んに使ったフレーズでもある。 ならば断言する。根絶などありえない。仮にISを殲滅したとしても、次のテロ集団は必ず現れる。

仏テロのまさに前日、レバノンでも40人以上の市民が殺害されるテロが起きた。でも知る人は少ない。 報道が圧倒的に少ないからだ。安倍首相はもちろん、各国首脳も声明を出さない。興味がないのだろう。

明らかな非対称。アンフェアだ。今もイラクやアフガンでは毎日のようにテロで多くの人が死んでいる。 でも世界は興味を示さない。レバノンもイスラム国家だから世界は冷淡なのか。それとも小さな国だからか。 フランス人とレバノン人とでは命の価値が違うのか。もしも僕がレバノン人ならそう思うはずだ。

だからこそ憎悪と報復の連鎖は終わらない。テロは続く。視点を変えるべきなのだ。自分たちの過ちに気づくべきなのだ。 宣伝になるけれど、9月に刊行したばかりの『「テロに屈するな!」に屈するな (岩波ブックレット)』を、もしも読んでもらえたら嬉しい。 硬直した「許せない」が、世界を壊し続けている理由について書いています。

No.238 ( 2015.11.1)


  この9月から10月に刊行された本は、

1、『「テロに屈するな」に屈するな』岩波書店
2、『池上彰・森達也のこれだけは知っておきたいマスコミの大問題』現代書館
3、『人間臨終孝』小学館
4、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』筑摩書房
5、『チャンキ』新潮社
6、『死刑のある国ニッポン』河出文庫

実はまだ出る。ほぼ二週間置きだ。担当編集者からは、もう少し時期を考えてほしいと叱られている。 そうだよなあ。まとめて刊行するメリットは何もない。むしろデメリットだけ。 今年7月くらい、それぞれのゲラ作業のスケジュールがわかり始めたころ、これはちょっとまずいなあと思っていた。 でも何も手を打てなかった。ずるずると坂道を滑り落ちてきた梶井基次郎の気分だ。

とにかく買ってください。同じ内容はひとつもないから(当たり前か)。

No.237 ( 2015.9.27)


  10月はふたつの映画祭に招待されている。 8日から始まる山形国際ドキュメンタリー映画祭では、12日(祝)の午前10時半からフォーラム5で、 「ドキュメンタリーは嘘をつく」が上映される。 上映終了後はスタッフやゲストたちと登壇してディスカッションを行うと聞いている。
http://www.yidff.jp/2015/info/15event.html

15日から始まる京都映画祭では、16日(金)の19時45分から「A2完全版」を上映する。劇場はTOHOシネマズ二条。 何が完全なのかは観てのお楽しみ。封切り時の15年前とは状況がひとつだけ変わり、僕にとってはとても愛着のあるシーンが復活する。
http://kiff.kyoto.jp/film/detail/20

両日とも、現在編集中の新作映画「Fake(仮)」のプレ予告編が初めて上映される予定。

No.236 ( 2015.8.25)


  参院特別委員会のテレビ中継。質問しているのは自民党の森まさこ議員。いやこれは質問じゃない。 おべっかという言葉がかすむほどの安倍賛美。その根拠として出されるメディアは月刊誌「WILL」と「FNN」。 アメリカは70年談話を評価? それは政府はするさ。欧米のメディアはまったく評価していない。切れ目のない脱力をするばかりだ。

  戦争に巻き込まれない? 仮にすぐにそんな事態にならなくても、これからは日本が提供する弾薬が戦闘地帯で子供や女を殺す。 僕が安全保障法制に反対する理由は、日本が戦争に巻き込まれるリスクが高まるからではない。 憲法9条は戦争と縁を切れない人類の歴史への唯一のアンチテーゼだ。 70年間守り続けたこのテーゼを、「抑止力を強化すれば、日本への攻撃を止めておこうと(敵国は)思うわけであります」 などの浅慮で雑駁で稚拙な論理で手放すことが本当に悔しいのだ。

  思いだす。平壌の戦争勝利記念館は、仮想敵国であるアメリカの脅威を強く強調しながら、 強力な抑止力を身につけて害悪を殲滅しようと訴えていた。我々は平和を望むとのスローガンも掲示されていた。 こうして国は過ちを犯す。何度も何度も繰り返す。

No.235 ( 2015.7.23)




  たぶん著作権上はいろいろ問題アリだろうけれど、面白いものは面白い。
正面からNOももちろん大事だけど、こうした姿勢も重要。
とにかく一時間くらい笑った。どんどん拡散してほしい。

No.234 ( 2015.7.3)


  国会中継を観ている。民主党議員の質問に対して安倍首相は、この30分だけでも、 「(北朝鮮が)日本を火の海にすると言っている」と4回口にした。 どうやらこの脅威への対抗が、安全保障関連法案においては最重要な大義であるらしい。

  まずは「火の海」になどならない。通常火薬を搭載した弾道ミサイルにはそれほどの破壊力はない。 「火の海にする」は北朝鮮の常套句だが、もっぱらこれを言われている韓国は、脅し文句とわかっているから動じない。 ところがこれを横で聞いた日本が浮足立つ。不安と恐怖を喧伝する現政権によって憲法解釈を変えようとしている。

  テロの定義とは、暴力行為によって不安や恐怖を与えることで政治目的を達成すること。 ならば安全保障関連も含めて政治体制を大きく変えようとしている今の日本は、 まさしく「(暴力行為の欠けた)テロに屈しかけている」ことになる。

No.233 ( 2015.6.10)


  意を決して月刊誌創に書きました。
書くまではさんざん逡巡したけれど、どうせ書いたのだから一人でも多くの人に読んでほしい。
https://viewer.yondemill.jp/?cid=11582

No.232 ( 2015.6.7)


  山崎広子が姜尚中さんとラジオで対談しました。以下で聴けます。
http://www.jfn.jp/News/view/people_02/25606

声については本命の姜さんとの対談で、なかなか意義ある対話になったようです。

No.231 ( 2015.5.3)


  十字軍や関ヶ原の戦いから日清・日露戦争に第一次世界大戦と第二次世界大戦、朝鮮戦争にベトナム戦争、 さらには現在のウクライナ紛争やイスラエル・パレスチナ問題も含めて、ほとんどの戦争は平和や安寧を獲得(維持)することを理由に起きる。

われわれは不安や恐怖に弱い。やられる前にやれとの自衛意識が必ず立ち上がる。だからこそ21世紀になっても戦争はなくならない。 発達したメディアによって危機意識を煽られ、互いに正義を主張し合いながら、われわれは多くの人を殺してきた。

9条はそんな人類の歴史や現状に対してのアンチテーゼだ。リアルで崇高な痩せ我慢でもある。 ただし戦争が起きるメカニズムを理解しなければ、これ以上ないほどの綺麗ごとだと思われることも確かだ。

特にオウム以降、実際の治安状況は著しく向上しているのに、この国の体感治安は急激に悪化した。 それは国外への危機意識にもリンクする。現政権は中国の武力拡大を理由に安全保障関連法案が必要であると説明するが、 でもかつて冷戦時代、もっと危機的な状況はいくらでもあった。

正念場という言葉をこれまで使いすぎていた自分を反省する。なぜなら今こそが本当の正念場なのだから。

No.230 ( 2015.3.23)


  ペロ・アグアヨJr.がメキシコのリングで死んだ。 Youtubeでその瞬間を見たけれど、どうってことないドロップキックが原因だ。 屈強な肉体のレスラーなのに、これほど簡単に人は死ぬ。脆い。儚い。 もしも天寿をまっとうしたとしても、80歳と計算すれば29200日。 一日100円使ったとしたら292日でなくなってしまう金額に等しい人生(なんか変な計算かな)。短いとつくづく思う。

22日に帰国しました。イギリス紀行の様子は今日(23日)のNHKニュースウオッチ9で 放送される予定だけど、この更新には間に合わないかな。

とにかくイギリスの研究者たちのオウムに対する真摯な姿勢にはびっくり。 それに対して日本のメディアは相変わらず。公安庁が発表するデータを真に受けて アレフの信者が急激に増えているなどと報道しているけれど、 公安庁は入信した信者数は発表しても脱会した信者数は発表しないんだってば。 増えるのは当たり前。実際には微減なのに。

No.229 ( 2015.2.20)


  たった今正午のNHKニュースで見たけれど、今日2月20日に行われた高橋克也の裁判に証人として出廷した井上嘉浩死刑囚は、 「地下鉄サリン事件は強制捜査をかわすことが目的ではなくハルマゲドンを成就するため」と述べたという。完全にリムジン謀議を否定している。 しかも否定することは初めてではない。ならばサリン事件における麻原の共謀共同正犯が揺らぐ。 ところがその麻原は、最大のキーパーソンであるはずなのに、なぜか証人として出廷しない。いやできない。 その理由を多くの人は知っているはずなのに、固く口を閉ざしている。触れないようにしている。

  3月11日に渡英します。オックスフォードやマンチェスターなど複数の大学が共同で行うオウム二十年のシンポジウムと、 『A』『A2』上映会に参加するため。

  おそらく日本では、「アレフがどれほど危険か」とか「いまだに帰依が解けていない」とか、 本質とはまったくかけ離れた議論でオウム二十年を迎えるのだろうな。

  重要な論点は宗教と暴力。特にオウムについては、それを考察するうえで最も重要なサリン事件の動機への解明。 そして一審で打ち切られた麻原法廷の異常さ。何よりもオウムによって変容した今の日本社会。 そうした論点を、世界から集まる研究者やイギリスの観客たちとディスカッションしてきます。

No.228 ( 2015.2.8)


  ドキュメンタリーを撮る友人たちのほとんどはリベラルだ。ドキュメンタリーだけではない。 映画監督、写真家、ルポライター、表現媒介は何であれ、そのほとんどは現政権や日本の今の社会状況に、(程度の差はあっても)強い違和感を持つ人たちだ。

もちろん近い思想信条の交友が濃密になることは当たり前。でも特にドキュメンタリー映画の領域においては、その濃度がとても濃い。

それがずっと不思議だった。数年前に湯布院ドキュメンタリー映画祭で一緒だった吉岡忍さんに、日本酒を飲みながら訊いたことがある。
「なぜみんな、ネットなどではブサヨなどと叩かれる人ばかりなのかな」
「当たり前じゃん」吉岡さんは言った。今ごろ何を訊くのかというような表情で。
「おれたちは現場を見ているもの」

No.227 ( 2015.1.26)


  テロの定義は、何らかの政治的目的を達成するために暴力による脅威で標的を不安や恐怖に陥れること。 暴力行為だけではテロではない。つまり「テロに屈する」とは、喚起された不安や恐怖で、何らかの政治目的を達成させてしまうことなのだ。 だからこそノーム・チョムスキーは、アメリカをテロの常習国家と呼ぶ。

ここまでを読みながら気づいた人もいるかもしれないが、身代金要求は政治目的とは違う。いわば営利誘拐そのものだ。 つまりこれを「支払う」ことは「テロに屈する」と同義ではない。でもこれを混同している人が多い。何よりも官邸がそうだ。 そうなると交渉そのものもテロに屈したということになってしまう。

もちろん支払うことが周囲に与える政治的影響は看過できない。何よりも一度支払えば、反復されるリスクがある。 だからこそ最善策を考えること、交渉し続けることが重要だ。

屈しないために考えるべき方法はたくさんある。実際に今は、違う選択肢がイスラム国から提示されている。 ただしこの選択肢はきわめて政治的だ。この要求に従うことが、むしろ「テロに屈する」ことなのだとの意識くらいは保持すべきだ。 つまり事態はより難しくなっている。

結局のところこの国は、身代金についての妥協点を探ることに失敗した。どこまで努力したのかもわからない。 とにかく最優先は命を救うこと。当たり前だ。12月の段階で身代金要求を知っていた安倍政権は、ここまで致命的なミスを何度もくりかえしている。 本来なら助かっていたはずの命を軽視し続けてきた。これ以上は過ちを重ねないでほしい。

No.226 ( 2015.1.23)


  72時間の期限が切れる少し前の22日未明(日本時間)、岡村善文国連次席大使は国連総会で、 イスラム国を批判しながら「日本はテロや暴力に屈しない」と演説した。

なぜ今このとき、こんなことを世界に向けて言わなくてはならないのか。

報道によれば、11月の段階で後藤さんの家族に、イスラム国から身代金の要求があったという。 ならば官邸がこの事実を知らなかったことはありえない。

もちろんこの時期には、極秘裏に人質解放のための交渉を続けていたと思いたいが、ならばテロ直後のこの時期に、 なぜ安倍首相はイスラム国と激しく敵対する国ばかりを訪問し、連携の強化や対テロのための支援を表明したのだろう。 よりによってイスラエルでネタニヤフと握手をしたのだろう。挑発と解釈されて当然だ。

もしも11月の段階で政府が本気で交渉していたのなら、この段階では身代金の金額も桁違いに低かったのだから、 二人が帰国できていた可能性は高い。官邸は明らかにその芽を摘んだ。さらに火に油を注いだ。国益とは国民の生命のはず。 国益が大好きなはずの日本のメディアは、なぜ政権を批判しないのだろう。

No.225 ( 2015.1.13)


  フランスのテロ事件とその後の世相を眺めながら思う。

表現の自由とはそもそもが、これを規制したり弾圧したりする国家(や政治システム)に対して行使されるべき概念だ。

その表現によって傷つく人がいるのなら、決して無制限に許される概念ではない。

僕たちは今、その悪しき実例を自国内で体験しているはずなのに、この反テロデモを無条件に称揚する人が多いことが不思議だ。

No.224 ( 2014.12.10)


  大学に郵便物が届くけれど、基本的には研究室にはほとんど足を運んでいないので、
手にするのは何カ月も後ということになります。

郵便物はできるだけ、直接送ってください。

No.223 ( 2014.11.30)


  以下はツイッターへの投稿。

「8割の人は自分の声が嫌い」一見ハヤリの自己啓発ハウツーっぽいタイトルですが、面白かった! 歴史の中の声の役割や、声が及ぼす心の効果。何より人への愛にあふれてました。

このダヴィンチの記事みたいなライトな楽しみ方もできるけど、さりげない社会批判とか人物分析の視点がすごく鋭くて、筆者が体験した実例もすごく力強い。 やっぱりひとつの道を極めつくすと、逆に横断的な視点にたどりついてゆくんだなーと思った。カッコいい!!

出会えて良かった!と思える内容でした。私は映像の仕事をしている関係で自分の声には自覚的な方だと思いますが、 色々うまく行っている時とそうでない時では、やはり声が違って聴こえます。 ご著作の中には、自分を好きになることの大切さが込められていて、本当に良かったです!


No.222 ( 2014.11.18)


  「A2」以降だから十四年ぶりに、新作映画の撮影を始めた。

訳あって内容はまだ公開できないけれど、遅くても来年3月くらいまでには撮り終えている予定。

もちろん順調に進めばだけど。

No.221 ( 2014.11.09)


  ようやく発売。あまり身内を褒めるべきではないけれど、これは本当に面白い。 いろいろ気がついた。腑に落ちた。なぜ東南アジアの人たちは甲高い声でしゃべるのか。 なぜケネディはカリスマ的リーダーになったのか。なぜ初対面なのにどうしても馴染めない人がいるのか。

  おそらく多くの人が、自分のこれまでの体験や現在の身の回りで、そういうことだったのかと膝を打つ要素がたくさん見つかるはずだ。

  そして何よりも声の持つ他者への影響力。話しかたとかそんなレベルじゃない。声の力。それは本当に納得する。同時に気づく。 それほどに影響力がある自分の声を、世界で最も頻繁に聞いている人は誰か。もちろん答えはひとつ。だから視界が変わる。 声の持つ自分への影響力。そして音がつくりあげる世界。自分の声が嫌いということは自分が嫌いということ。それはあまりにもったいない。

  とにかく読んでほしい。本当に世界観が変わります。

『8割の人は自分の声が嫌い 心に届く声、伝わる声』(山崎広子・著/角川SSC新書)

No.220 ( 2014.10.24)


  帰国してからずっと体調が悪かったけれど、やっと昨日くらいから落ち着いた。

カンボジアではトウール・スレン(S21)とキリング・フィールドに行ってきた。 何十人もの乳幼児の頭を叩きつけて殺したという樹木の前で言葉を失う。足もとの土には、今も大量の骨や歯が埋まっている。 多くの観光客がトウール・スレンとキリング・フィールドを訪れる。でもカンボジアは隠さない。 どちらも国立の施設だ。全世界に向けて自分たちの過ちを公開する。

だから考える。もしもカンボジアに右派や保守勢力がいるのなら、この展示は自虐史観だと抗議するのだろうか。 自国の恥を世界に晒してカンボジアの国益を大いに損なっていると主張するのだろうか。

No.219 ( 2014.10.1)


  2日からしばらく海外です。

メールは繋がったり繋がらなかったり。

携帯は高いからなるべく使いません。

No.218 ( 2014.9.25)


  叱られてしまった。でもこれは批判されて当然だ。

裁判員制度は死刑判決を激減させたという「スクープ」のウソ

なるほどそういうことか。もちろん犯罪率が減少していることは知っていたけれど、近年はこれほど少なくなっているとは思わなかった。やっと腑に落ちた。

No.217 ( 2014.9.4)


  たった今、いろいろと話題になっている池上彰さんのコラム「新聞ななめ読み」を読んだ。 この掲載をいったんは断った朝日の見識をまずは疑う。自社に対しての批判を載せないというのであれば、それは完全にジャーナリズムの放棄だ。

でも、朝日は謝罪すべきとの池上さんの主張に、強い違和感も持ったことも事実。 例えばコラムの最後に池上さんは、「過ちは潔く認め、謝罪する。これは国と国との関係であっても、新聞記者のモラルとしても、同じことではないでしょうか」と書いている。 本文中には「お詫びがなければ、試みは台無しです」とも。

そうだろうか。

メディアは安易に謝罪すべきではない。例えばNYタイムズには「correction」というスペースがあって、過去の記事の過ちや間違いを、すべて記者の実名なども含めて提示している。 ソースの確認に誤りがあったとか、○○デスクの判断が甘かったとか。訂正だけではなく、誤ったその理由などもしっかりと明記する。 ただしそこには謝罪のニュアンスはない。言葉で謝罪はしないけれど、間違えた過程や記者の名前、そしてこれに対しての処分なども発表する。

ここは想像だけど、謝罪の強要はメディアを委縮させるとの意識があるのだと思う。でも過ちは認める。しっかりと検証する。そして公開する。 だから読者も、メディアも時には間違えるのだというリテラシーを持って接することができる。

その意味で朝日の8月5日・6日付の慰安婦検証記事は、この取材に関わった記者の名前をまったく明らかにしていないし、現在のコメントなども掲載していない。 まずはこれがダメ。訂正のうえで間違いの過程を検証し、さらに責任の所在を公開して、場合によっては処分する。 それがメディアの謝罪だ。言葉で「ごめんなさい」とか「申し訳ない」などと言われても仕方がない。 イラク戦争時における大量破壊兵器の報道を例に挙げるまでもなく、メディアの間違いは途轍もない規模の被害を生むのだから。 いまさら謝られても困る。謝罪の言葉などで追いつくはずがない。

池上さんが指摘するように、朝日が間違いを認めるタイミングがあまりに遅かったことは確か。ならば朝日は検証記事で、遅れた理由も検証すべきだった。 なぜ遅れたのか。その背景では誰がどう指示をしたのか。どんな力学が社内で働いたのか。責任ある人はいま、どのような発言をするのか、そうした要素がまったくない。

でもこれに対して、謝罪の言葉がないとの詰め寄りかたは、結局はメディアを委縮させるばかりだ。 その帰結として権力や民意への従属度が強化される。それは(国民にとって)さらに大きな不利益を派生する。

No.216 ( 2014.9.2)


  前々回のこのコラムで、再文庫化した「クォン・デ」がまったく評判にならないと愚痴を書いて、 何人かの知り合いから「あんなことは書くべきではない」と叱られた。

良い本はたくさんある。読むべき本もたくさんある。でも評判になるかどうかは別。
これはそんな一冊。読みながら何度も切なくて苦しくて泣きそうになった。

著者の二宮護さんは、「クラウド」を書くときに編集業務を担当してくれた人。
でも彼にこんな過去があったことなど、つい最近まで知らなかった。少しでも多くの人に読んでほしい。

『別れを力に』(二宮護 著 / dZERO(インプレス))

No.215 ( 2014.8.22)


ここのところ国内ニュースをあまり見ない。新聞も社会面より国際面を優先する。誰かが誰かを刺したとかそんなニュースはもううんざり。 事件を知ることはもちろん必要だけど、刺された人がどんなご近所で評判だったとか刺した人は高校時代にこんなことをしていたとか、まったく興味がない。

そんなことよりも、イスラエルのガザ侵攻(これは絶対に戦争ではない)、エボラ出血熱の現状、イスラム国とシリア・イラク情勢など、 アップデートな情報を知りたいことはたくさんある。

だから朝はずっとBS1をつけっぱなしにしている。ここ数日はイスラム国関係のニュースが多い。 人質殺害を伝えるとき、世界中のメディアは残忍や残虐などの形容詞を使う。

確かに残忍で残虐だ。でもイスラム国メンバーが皆、血に飢えたオオカミのような存在なのかといえばそうではない。 彼らがこれほど残忍で残虐な振る舞いをする背景には、宗教の持つ負の属性のひとつが現れている。

ただしもちろん、狂人の真似をして往生を歩けば狂人と見なされるのだ。彼らの振舞いは「外形的に」残虐で残忍だ。 だから「外形的な」報いを受けなければいけない。 でも(もう一度書くが)一人ひとりが血に飢えた存在なのかといえばそうじゃない。 その意識を持つか持たないか。それによって世界の見方はずいぶん変わる。

No.214 ( 2014.8.8)


  ここのところ国内ニュースをあまり見ない。新聞も社会面より国際面を優先する。 誰かが誰かを刺したとかそんなニュースはもううんざり。事件を知ることはもちろん必要だけど、 刺された人がどんなご近所で評判だったとか刺した人は高校時代にこんなことをしていたとか、まったく興味がない。

そんなことよりも、イスラエルのガザ侵攻(これは絶対に戦争ではない)、エボラ出血熱の現状、 イスラム国とシリア・イラク情勢など、アップデートな情報を知りたいことはたくさんある。

だから朝はずっとBS1をつけっぱなしにしている。ここ数日はイスラム国関係のニュースが多い。 人質殺害を伝えるとき、世界中のメディアは残忍や残虐などの形容詞を使う。

確かに残忍で残虐だ。でもイスラム国メンバーが皆、血に飢えたオオカミのような存在なのかといえばそうではない。 彼らがこれほど残忍で残虐な振る舞いをする背景には、宗教の持つ負の属性のひとつが現れている。

ただしもちろん、狂人の真似をして往生を歩けば狂人と見なされるのだ。彼らの振舞いは「外形的に」残虐で残忍だ。 だから「外形的な」報いを受けなければいけない。でも(もう一度書くが)一人ひとりが血に飢えた存在なのかといえばそうじゃない。 その意識を持つか持たないか。それによって世界の見方はずいぶん変わる。

No.213 ( 2014.7.11)


  角川書店の「クォン・デ~もう一人のラストエンペラー」が、 表紙イラストを谷口ジローさんにお願いして再文庫化された。以下はAmazonに載っている内容紹介。

1951年、杉並区の粗末な貸家で孤独に息絶えた老人・クォン・デ。彼はフランス植民地支配からの祖国解放運動のため、 45年前に来日したベトナムの王子であった。母国では伝説的カリスマであった彼が、その後なぜ一度も帰郷できず、 漂泊の日々を送らねばならなかったのか……。満州国皇帝溥儀を担ぎ出した大東亜共栄圏思想が生んだ昭和史の裏ミステリーを、 映像界の奇才が鮮やかにドキュメント。

映像界の奇才との記述はともかくとして、僕にとってはとても重要な意味を持つ大事な一冊。 だから(普通はやらない)再文庫化を角川に懇願し、谷口さんにもお願いした。
日本とベトナム双方から忘れられたクォン・デ。その生涯を知ってほしい。一人でも多くの人に読んでほしい。






No.212 ( 2014.7.7)


  今日は7月7日。77年前に盧溝橋事件が起きた日。ここから日中戦争が始まった。

でもそれを記憶する人はほぼいない。メディアもほとんど報じない。

今だからこそ、こうした史実を思いだすべきなのに。

No.211 ( 2014.6.23)


  もしも今もドキュメンタリーを撮っているのなら、今撮りたいのはセウォル号の船長。 でももう機は完全に逃している。今からでは意味がない。 だから今は、セクハラ野次の都議。でもおそらく今日か明日には名乗り出る(あるいは名指しされる)のだろうな。

共通することは凄まじい憎悪の標的になっているということ。報道が渦中のころにテレビで船長に対してコメンテーターが口にした 「まったく悪魔のような奴ですね」との形容が典型的。

それは違うと思う。少なくともデモーニッシュな要素はない。極度に視野が狭くて意思の弱い人であることは確か。 でも同時に思う。もしも僕がセウォル号の船長だったなら、あのときにどのように振舞ったのだろうかと。

No.210 ( 2014.6.7)


  火曜(3日)の夜に携帯をなくした。

昨日(6日)新しく買ったけれど、ほとんどの人の電話番号がわからなくなった。

森から連絡が来ないと怒っている人。申し訳ないけれど電話ください。番号は変わっていません。

No.209 ( 2014.5.30)


  カラスの仔を拾った。

まだ飛べない。ハシボソ。

巣から落ちたときにぶつけたのか右脚が折れている。

獣医で添木をしてもらったけれど治るだろうか。

No.208 ( 2014.5.22)


  サッカーに興味はほとんどない。でもこの映像はたまたまテレビで見た。4月27日のスペインリーグ戦。 ブラジル出身でバルセロナに所属するアウベスが、観客席から「おまえはサルだ」を意図するバナナが投げ込まれたとき、 すかさずこれを拾って食べてから、プレーを続行した。

  ほとんど数秒の出来事。でも観ながらいろいろ考えた。 試合後にアウベスは「差別に対してはユーモアで切り返す」的なことを語ったらしい。その理屈はわかる。 そしてそれを瞬時の判断で実践できるアウベスはすごい。

  日本人は差別に馴れていない。特に明治以降、部落差別や在日外国人差別に対して、多くの人は目をそむけてきた。 視界から外してきた。そして差別される側も沈黙した。もちろんメディアも。その帰結として持続する表層的な平等社会。 だからこそ突如現れたヘイトスピーチに対応する策がわからない。見て見ないふりをする。あるいは互いにムキになる。

  極論だけど、もっともっと差別が顕在化する社会になったほうがいいのかもしれない。人は人を差別する。 なぜなら多数派に身を置きたいから。その意識は誰もが持つ。僕の中にもきっとある。そのネガティブな領域を、もっと直視すべきなのだ。

No.207 ( 2014.5.9 )


  帰国しています。いろいろ思うことはあるけれど、これからゆっくり整理します。

  メディアについていちばん驚いたのは、新聞にもテレビのニュースにも、いわゆる事件報道はほぼないということ。 つまり社会面が存在しない。ネットやメールが国外と繋がらないことも含めて、いろいろ考える。

  多くの人に拉致されなくてよかったねと言われて苦笑するばかり。 そういえば行く前には、やっぱり多くの人から拉致されないようにと言われたことを思いだす。

No.206 ( 2014.4.23 )


  25日から平壌。滞在中はメールも携帯も繋がらない。絶叫マシンに乗るかどうか思案中。

できるだけ多くの人と話したい。見たい。聞きたい。

帰国は1日の予定です。

No.205 ( 2014.4.13 )


  道を歩いていたら突然タイガー・ジェット・シンにコブラクローをかけられてサーベルで刺し殺されそうになってから (でもよく見ると顔はうれしそうだ)、もう何年が過ぎるのだろう。

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。を実感する日々。4月下旬に北朝鮮に行ってきます。

No.204 ( 2014.3.28 )


  袴田事件の再審開始が決定した。静岡地裁の村山浩昭裁判長は、刑と拘置の執行停止も決定しながら、 「拘置を続けることは耐え難いほど正義に反する」と言及したという。耐え難いほどに。

  この言葉にすべてが集約されている。素晴らしい判決文だ。逮捕から48年間。袴田さんは束縛され続けている。 生きる意味を奪われ続けている。だから検察にお願いしたい。心の底からお願いしたい。少しでも人間としての情があるのなら、 法の正義を信じているのなら、自らの仕事に誇りを持っているのなら、絶対に即時抗告はしないでほしい。断念してほしい。 袴田さんを家族のもとに帰してほしい。

  以前にもこのコラムで紹介したけれど、獄中の袴田さんが息子に送った手紙の最後のフレーズをもう一度引用する。

「息子よ、必ず証明してあげよう。お前のチャンは決して人を殺していないし、一番それをよく知っているのが警察であって、 一番申し訳なく思っているのが裁判官であることを。チャンはこの鉄鎖を断ち切ってお前のいる所に帰っていくよ」


  ・・・上記の文章を書いたのは3月27日。つまり決定直後。 それから一夜明けた今日28日、テレビのニュースや新聞などの報道は袴田さん一色。 それも事件を振り返りながら、味噌樽の中の衣服や裏戸口のトリックなどを、ここぞとばかりに説き明かす。基本的にはうれしい。 これで検察の即時抗告は棄却される可能性は高くなった。でもそれらの記事やニュースを読んだり見たりしながら、だんだん腹が立ってきた。

  今頃これほどに力強い報道をするのなら、なぜもっと早く社会に訴えなかったのか。 事件や裁判の経緯を知れば、誰だってこれは不当だと思う。証拠捏造の可能性を疑う。ならばもっと早く訴えるべきではなかったのか。 しかも今も再審請求をしている熊本事件や名張事件、福岡事件などへの言及はほとんどない。

  要するに司法のお墨付きが出たから言えるということなのか。ならばそれはメディアではない。権力の広報機関だ。

No.203 ( 2014.3.21 )


  集英社から「謝るなら、いつでもおいで」が届いた。著者は川名壮志。毎日新聞の記者だ。 佐世保小6同級生殺害事件が起きたとき、川名は佐世保支局に配属されていた。 そして殺害された少女の父親はたった一人の直属の上司であり、一家とは家族ぐるみの付き合いをしていた。 記者であると同時に当事者でもある。川名は揺れる。惑う。感情に突き動かされる。書くべきなのかと悶える。 記者であらねばならないと葛藤する。そしてタイトルの言葉に巡り合う。

  ノンフィクションは冬の時代などとよく言われるけれど(ならば春の時期はいつだったのだろう)、 でも価値ある本はたくさんある。どうしてもっと多くの人が読んでくれないのだろうと悔しくなる。

  今日の出版界は完全に「数撃てば当たる」状況になっている。ひとつでもベストセラーが出ればすべて回収できる。 要するに紙資源の無駄使い。でも(大ベストセラーにはならないとしても)大切な本はもちろんある。 これはそんな一冊。とても大事な本。多くの人に読んでほしい。

No.202 ( 2014.3.15 )


  4月に公開されるドキュメンタリー映画「パンドラの約束」は、原発推進映画と称されている。 そのコメントを求められた。資料にはサンダンス映画祭で上映されたとき、原発反対派の8割が支持に変わったと書かれている。 2月には自民党の電力安定供給推進議員連盟が試写会を主宰して、上映後には拍手がわいて大評判になったという。

だから観た。新しい論点が提示されているのだろうかと思ったのだ。そして観終えてあきれた。 結論から逆算する最もダメなドキュメンタリーだ。配給会社からは思いきり書いてほしいと言われている。 言われるまでもない。でもボツにされた。だから以下にペーストする。


原発賛成の論理を知りたかった。説得されてもいい。そう思いながら観た。そしてあきれた。
杜撰で強引な展開。曖昧なデータ引用。まったく説得などされない。逆にあきれるばかりだ。
だからこそ推進派も反対派も観たほうがいい。原発推進の論理がいかに脆弱で詭弁で
ご都合主義であるかがよくわかる。この映画の価値はそこにしかない。




No.201 ( 2014.3.5 )


  広島長崎への原爆投下や東京大空襲はアメリカによる戦争犯罪であるという視点は同意する。 僕もまったく同じことを考えている。南京虐殺や従軍慰安婦についての発言に対して、 「要職に就いているのだから政治的な発言をすべきではない」的な批判は言論弾圧であるとの論理についても同意する。

  NHKの会長や方向性を決めるうえで大きな要素となる経営委員会の会議は、常にクローズで行われる。 ならばそこにどのような思想信条を持つ人がいるのかを、僕たちは知らなければならない。 むしろ(百田・長谷川両委員以外の人たちも)どんどん発言すべきだ。そのうえでこの人たちがふさわしいかどうかを議論する。 そのプロセスには何の問題もない。

No.200 ( 2014.2.14 )


  筑摩書房のPR誌「ちくま」に連載している「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」は、 最先端の科学者にタイトルの命題をぶつける企てだ。今月号の掲載は素粒子物理学者の村山斉さんで、 次号からは脳研究者の池谷裕二さん。二人の答えが対照的でなおかつ類似的で、原稿を整理しながらとても面白い。

  今日は2月14日。夜は明けたばかり。雪が降りだしている。 千葉と茨木の県境の丘陵地帯にある家の周囲には以前の雪がまだ残っていて、窓から見える景色はほとんど雪国だ。

  雪は追憶を誘う。眺めながらいろいろとりとめなく考えているうちに、村山さんも池谷さんも、 科学者でありながらベストセラー作家でもあるのだと気がついた。今日はこれから昼に対談が二つ。 堀江貴文さんと山本太郎さん。明日は池田香代子さんが主宰しているインターネットTVに出る。 みんな僕なんかよりはるかに売れている作家たちだ。啄木の「友がみな・・・」の気分になりながら原稿に向かう。

No.199 ( 2014.1.28 )


  元オウム信者で確定死刑囚の4人が麻原三女を仲介者として本を回し読みしていたとして大きなニュースになっている。 一体この行為の何が問題なのか。

  メディアによれば東京拘置所は、「放置すると死刑囚の間でさらに金品の授受が行われることになり、 施設の規律・秩序の維持にも支障を来しかねない」などと説明しているようだが、直接的な授受などしていない(できるはずがない)。

  平田公判における証言の際の意味不明な衝立も含めて、なぜ拘置所はこれほどに死刑囚や制度を隠そうとするのか。 閉ざそうとするのか。そしてメディアはなぜ、その問題提起をしないのか。

No.198 ( 2014.1.21 )


  今日の平田公判の証人は中川智正。昼のニュースで仮谷さんの遺体を本栖湖に流す行為に関与したと言ってから、 「・・・すいません。流したのは私です」と言い換えたと報道されていた。その表情が目に浮かぶ。

あなたがもし「A3」を読んでくれているのなら頷いてくれると思うけれど、 サリン事件の謎(麻原の動機)について最も重要な証言を面会時にしてくれたと同時に、 会った人の誰もが好きにならずにはいられない男だった。とても会いたい。話したい。 でもそれはこの国では叶わない。

No.197 ( 2014.1.18 )


  一年近く前に保健所からもらってきた(あいだにNPOがあるけれど)犬が、 プレステのコードを齧って使いものにならなくなった。 「ヤンガスと不思議なダンジョン」、年末からずっと続けてやっと600階までいったのに。 苦労してメタルキングの槍も+50にしたのに。すべて消えた。失意と落胆で茫然としている。 もう仕事に専念するしかない。悪魔の犬だ。そのうちひどい目に合わせてやる。

No.196 ( 2013.12.28 )


  靖国は宗教施設であり、遊就館の展示が示すように(売店の推薦図書は特に露骨)プロパガンダ装置でもある。 ならば安倍首相が頻繁に引き合いにするアメリカのアーリントン墓地とは、本質的な意味合いがまったく違う。 つまり国家元首が慰霊のために訪れる施設としてふさわしくない。それはまず大前提。そのうえで考える。 参拝後に安倍首相は「誤解を解きたい」と言った。ならば考えねば。どんな誤解を解くべきなのか。

  中国や韓国のメディアは、靖国参拝を報道して批判するとき、必ず「A級戦犯を祀っている靖国神社に・・」との コンテクストを使う。つまり国のために死んだ人たちを慰霊すること自体を批判しているのではなく、 日本を戦争に導いた戦犯を祀っている施設に参拝したことを批判している。

  ならば言わなければ。A級戦犯だけに戦争責任のすべてを押しつけることはできない。一部の指導者の意志だけでは戦争は始まらない。 騙した人と騙された人。煽った人と煽られた人。そんな二分はありえない。国民の多くが政策に熱狂したとき、政権を支持したとき、 国家は大きな過ちを犯す。つまり国家と国民の相互作用だ。

だからA級戦犯を合祀することについては(靖国でよいかどうかはともかく)反対はしない。ただしこの国でA級戦犯の責任がこれほどに肥大した理由は、 天皇制を存続させるために「天皇を騙したり追い詰めたりした人たちがいた」とのコンテクストが必要になったからだ。 自分たちでその宣言をしてしまったのだ。だからこそ周恩来は「我が国は賠償を求めない。 日本の人民も、我が人民と同じく、日本の軍国主義者の犠牲者である」と発言した。その歴史と認識を国民はしっかりと共有すべきだ。

  いずれにせよ本気で平和を祈念するための参拝ならば、アメリカやEUが不快感を示したくらいで動揺などするな。 ただししっかりと宣言しなくてはならない。一部の指導者にのみ戦争責任を押しつけた観点について東京裁判史観は過ちである。 責任は当時の国民すべてにある。だからA級戦犯も同じように祀る。そのうえで二度と過ちを犯さないことを誓うために慰霊する。 歴史をしっかりと記憶する。この国が誤解を解くために使うべきロジックはこれしかない。

  今が歴史のターニングポイントであるかどうかはわからない。でも後で悔やみたくない。 自分たちは騙されたとか無理矢理に背中を押されたなどと後から言いたくない。結局は加担した一人になりたくない。 時代の変化を後押しした多くの国民になりたくない。だから今は抵抗する。全力で時代に抗う。

No.195 ( 2013.12.23 )


  こういうのがいちばん好きだ。新宿版や香港版もあるのだけど、
残念ながらフランス版に比べれば何となく自由さがない。
http://www.youtube.com/watch?v=kbJcQYVtZMo

そろそろクリスマス。やっぱりこれも挙げておこう。
この歌詞の意味を一人でも多くの人が噛みしめてくれますように。
http://www.youtube.com/watch?v=yN4Uu0OlmTg

No.194 ( 2013.12.15 )


  張成沢氏処刑についてテレビのニュースやワイドショーなどで、「何と残虐な」的なフレーズを何回か聞いた。 基本的には同意する。確かに僕も驚いた。無慈悲で残虐で前近代的な国だと思う。

  でも同時に、「何と残虐な」と眉をひそめながら、無慈悲で前近代的な国だと呆れながら、ああそういえばと思ってほしい。 少しだけ思いだしてほしい。 張成沢氏が処刑された12月12日、この国でも二人の男性が処刑されていることを。

No.193 ( 2013.12.09 )


  神奈川新聞から受けたインタビューで、この国がずっと抱き続けているアジアへの優越意識や蔑視感情について口にした。 つまり脱亜入欧。でも戦後は欧が米になった。その記事はネット版にも転載されたから、例によって2ちゃんねるやまとめサイトで <【神奈川新聞】森達也「日本人は中国に経済で抜かれた事を認められぬ。 在日韓国・朝鮮人への嫌韓デモはその憂さ晴らし」>のタイトルで複数のスレッドが立てられた。


在日朝鮮人の映画監督が何を言っても説得力なしz

日本人の発想じゃないな(笑)(笑)(笑)

てか、この人誰??

妬みでしか物事を判断できないのは、あちらの方ですか?

いまどき左翼をやってるくらいだから頭が悪いんだなwww

だから、売国奴はクズだっていうんだよ

これが朝鮮脳というやつか

この人って韓国人的感性だ

どうも在日臭いなあ しかも総連系のね

日本人は支那畜生やトンスリアンにそんな感情は持ってネーんだよ

あいつらに対する感情は単なる【嫌悪感】でしかない(゚д゚)バーカ


  「この状況の根底にはアジアへの蔑視感情がある」に対しての反論のつもりなのだろうけれど、 「こんな見当違いな発想をするやつは日本人ではない」と無邪気に書き込んでいる。 そもそも「憂さ晴らし」なんて言葉は口にしていないのに、まとめサイトの管理人が勝手に付けたこのタイトルに反応して 「どこが憂さ晴らしだ!」と怒っている。

  最近はこちらも免疫がついた。このレベルはどうでもいい。でも時おり思う。不思議になる。 なぜこの人たちはこれほど情熱的に、そしてこれほど口汚く、他者を罵倒できるのだろう。

No.192 ( 2013.11.29 )


  テレビと雑誌は論外。もはやジャーナリズムではない。だから必死に反対キャンペーンを張る新聞に言いたい。 ならば「ねじれ解消」とか「アベノミクス」などの狂騒は何だったの?

  憲法草案も選挙前に提示されている。日本版NSCの構想も明示されていた。つまり自民圧勝で、今のこの路線と状態は充分に予測できていた。 安倍首相にしてみれば、何で今ごろ国民とメディアは僕ちゃんの梯子を外そうとするの?という気分だろう。

  だから政治家が強気になる。多少の反対があっても通してしまえば何とかなると思っている。要するに舐められている。 その責任はこの国の国民とメディアにある。ならばここで阻止しても、またいずれ同じことを繰り返す。こうして少しずつ一定の方向に近づいている。 10年前と今とではこの国の形はこんなに違う。

  とにかくありえない悪法。論外。話にならない。必要性がどこにもない。絶対に阻止しなくてはならない。 ・・・それは大前提として実のところ意識のどこかで、

もう通しちゃえば?

半ば本気でそう思っている自分がいる。

No.191 ( 2013.11.18 )


  昭和41年に静岡県で一家4人が殺害され放火されたいわゆる袴田事件の再審、 裁判のやり直しを求める手続きで、袴田死刑囚が出火直後の時間帯に社員寮にいたという同僚の調書が開示され、 弁護団は「確定判決の矛盾を示す証拠だ」として、最終意見書に盛り込むことにしています。 袴田巌死刑囚(77)は昭和41年、現在の静岡市清水区で、みそ製造会社の専務の一家4人を殺害し、 家に放火したとして死刑が確定しましたが、無実を訴え、2度目の再審、裁判のやり直しを求めています。

  ことし7月、裁判所からの勧告に基づき、検察が当時の調書や捜査報告書など、およそ130点の証拠を開示し、 弁護団によりますと、この中に当時、袴田死刑囚と同じ寮に住んでいた同僚2人が 「出火直後にサイレンを聞いて部屋を出ると袴田死刑囚が後ろからついてきて、一緒に消火活動をした」 と証言する調書が含まれていたということです。

  確定判決では、同僚の証言は「袴田死刑囚の姿は見ていない」と変わり、 「鎮火しかけた頃になるまで袴田死刑囚の姿を見たものはいない」と認定されています。 弁護団は「今回の調書は確定判決の矛盾を示す証拠だ」として、12月2日までに提出する最終意見書に盛り込むことにしています。

11月18日のNHKニュースから


  心の底から裁判官にお願いします。46年間束縛され続けた袴田さんを、今度こそ自由にしてください。 自分の良心に従ってください。逮捕時に幼い息子に、「必ず証明してあげよう。お前のチャンは決して人を殺していないし、 一番それをよく知っているのが警察であって、一番申し訳なく思っているのが、裁判官であることを。 チャンはこの鉄鎖を断ち切って、お前のいる所へ帰っていくよ」と手紙を書いた袴田さんを、どうかどうか救ってください。

No.190 ( 2013.11.12 )


  なるほど今度は純米酒か。ならばしばらくは酒の業界に飛び火する。
次には一流ではないホテルのレストラン。料亭や街のレストランを経てファミレス。
そして居酒屋チェーンや大衆食堂。

でもその頃には国民は偽装問題にすっかり飽きているのでメディアも報道しない。
ということはほとんど問題にならない。こうしていつのまにか話題が消える。
歪んだ後遺症ばかりを残しながら。

No.189 ( 2013.10.19 )


  ほとんどバラエティ番組は観ないけれど、「ほこ×たて」は気がついたら観るようにしていた。 だから五回に一回くらいは観ている。特に鉄板VSドリルみたいな最初の頃は、相当に面白かったと記憶している。

  今回の騒動を多くのメディアは「下請制作会社のディレクターが」とか「局のプロデューサーがチェックしきれず」などと報道しているし、 実際にフジテレビもそのような説明をしている。

  ならば説明が足りない。民放で下請制作会社が関与しない番組など、ほとんど存在しない。 仮に局制作であっても、スタッフの多くは制作会社からの派遣や契約社員で成り立っている。 つまり下請だから教育が行き届かなかった的な文脈を使うのなら、現状のテレビ番組のほとんどは否定されねばならなくなる。

  かつて関西テレビの「発掘!あるある大事典」捏造問題の際にも、やはり下請制作会社のスタッフが…的な論法が頻繁に使われた。 その結果としてテレビ業界の構造などよく知らない普通の人は、たまたま下請制作会社に発注していたからこんな不祥事を起こしてしまったのだと錯覚してしまう。

  もう一度書く。現状のテレビ番組を制作しているのは、(NHKを別にして)ほとんどが下請けの制作会社だ。 つまりこの問題は、テレビ業界全体が抱えている問題なのだ。

No.188 ( 2013.10.19 )


  10月23から27日まで日本にいません。メールの調子が悪く、受信はできても送信できないかも。

11月2日は新潟。会田誠さん、斎藤美奈子さんとコラボ。自分が加わるというよりも、
この二人の話を会場で聴いてみたい。

No.187 ( 2013.10.1 )


  知らない人が「森達也は息を吐くように嘘をつく」とネットに書いていた。
なかなか文学的で素敵な表現じゃないかと思っていたら、ネトウヨたちがネットに
書き込む決まり文句らしい。
要するにwwwと同じ。とてもがっかり。
結局はそのレベルなのか。

No.186 ( 2013.9.13 )


  バイト先の悪ふざけの写真を公開するのもどうかとは思うし、 これほど騒ぎになっているのにいまだに後を絶たないことについては嘆息するしかないけれど、 店側の対応があまりに過剰すぎる。なぜ閉店までしなくてはいけないのか。 それほどに食品に対して潔癖ならば、化学物質に対してもっと意識を持つべきだ。

とにかく過剰すぎる。 仏週刊紙「カナール・アンシェネ(Le Canard Enchaine)」に掲載された風刺漫画に対しての反応も同様。 大人げない。なぜこれほどムキになるのか。

数年前にイタリアで寺院に落書きした女子大生が日本中からバッシングされたことを思い出す。 一罰百戒がこの国のコモンセンスになりつつある。

No.185 ( 2013.9.4 )


今は9月3日の午後9時10分。一言だけ書きたい。最初から最後まで観ていた。

この試合で亀田が3対ゼロで圧倒的な判定勝ちは絶対におかしい。

どうしてこんな露骨で恥ずかしいことをするのだろう。

どうしてこんなに幼稚なのだろう。

No.184 ( 2013.8.21 )


  今日の日付は8月19日。日本を発ってから二週間以上が過ぎた。 これまでに訊ねた国はインドとキプロス、トルコとギリシャ。 1970年代に内乱が続いたキプロスでは、首都ニコシアを通る「グリーンライン」によって、 北側はトルコ系住民が住む「北キプロストルコ共和国」に、そして南側はギリシア系住民が住む「キプロス共和国」に分断されている。

そもそもは二つの民族が共存する国だった。でも1974年に少数派のトルコ系と多数派のギリシャ系とのあいだに紛争が起きて、 トルコが軍隊を派遣した。多くのギリシャ系住民が殺されて(もちろんトルコ軍やトルコ系住民にも被害が出た)、国連軍も加わり、 トルコ系住民は島の北部へと移って自分たちの国を作ろうとした。 そこで国連は南北の境界としてグリーンラインを設定し、緩衝地帯(Nomansland)には国連平和維持軍が常駐されて双方を監視した。

そのグリーンラインを歩く。銃痕がおびただしく残るビルやホテルがそのまま残されている。 ツアーに同行するのは、民間レベルで南北キプロスの若者の交流を続ける「キプロス・フレンドシップ・プログラム」のメンバーだ。 こうしたツアーに参加できるのはピースボートならではだ。

写真は「キプロス・フレンドシップ・プログラム」のメンバーと食事をした(トルコエリアの)レストランの壁に描かれていた落書き。 周囲の家の塀にもたくさんあった。いろいろ聞いた。いろいろ知った。旅が終わってから報告します。

No.183 ( 2013.7.29 )


  2日から日本にいません。帰国予定は28日。

メールはチェックできると思うけれど、この間の郵便物は控えてもらったほうがありがたいです。

No.182 ( 2013.7.22 )


  自民党から見れば確かに「ねじれ」だ。でも違う視点から見れば「ねじれ」ているわけじゃない。
ところが選挙から一夜明けてメディアはすべて、当たり前のように「ねじれ解消」などという。
「解消」という言葉を使うなら以前より良くなったとの意味になるけれど、そうした世相を喚起する意味は何だろう。
ならば二院制は何のためにあるのだろう。両院の多数派が同じ政党であることはベストなのか。
与党の法案が摩擦なく成立することは健全な民主主義であると本気で思っているのか。
もう少し考えてから言葉を使ってほしい。

No.181 ( 2013.6.29 )


  テレビを見ていた。鳩山元首相の尖閣発言やTPP、原発輸出などをテーマにした討論番組だ。 VTRのナレーションやコメンテーターや司会者の発言に、「国益」という言葉が何十回も出てきた。

  いつからこの言葉が、これほどにポピュラーになったのだろう。 もしここ十年の流行語大賞を決めるなら、絶対にダントツの一位になるはずだ。 少なくとも「絆」よりはずっと消費されている。

  いろんなところで僕は、今のこの国の状況は(欧米のメディアが指摘するような)右傾化ではなく、 集団化だと言い続けてきた。それは今も変わらない。国体や民族主義などの思想信条やロジックはほとんどない。 でも同時に思う。特に安倍政権発足後、(自民党の改正憲法草案が示すように)集団が道筋を与えられている。 疑似右傾的ではあるけれど、明らかに右傾的な回路を持ち始めている。 ところが思想信条やロジックは相変わらず薄いから、全体が向かう方向に一気に加速する。

  つまり右傾化ではなく全体主義化だ。 かつてゴルバチョフは、「日本は世界で最も成功した社会主義国家だ」と発言したという。 真偽は不明だけど、でも否定できない。この国はいつも一足飛びだ。相転移が起きやすい。 オ-ウェルの「1984年」が「独裁者不在の独裁国家」を描いていると仮定できるのなら、この国はまさしくその典型だ。

No.180 ( 2013.6.10 )


  近年の日本の首相がなぜこれほどにころころ変わるかについては、 内閣支持率調査があまりに多くなったことが大きな要因として働いている。 ほぼ毎月のように各メディアが自社で行ったアンケート結果を発表している。 これはいってみればテレビの視聴率だ。低迷が続けばワンクールを待たずに打ち切られる。 だから長いスパンの政策ができなくなる。 刺激的でわかりやすくて大向こう受けする政策ばかりが多くなる。 ワンワード・ポリティクスはその典型だ。

  新聞の見出しと(いわゆる)まとめサイトで、先週は嫌な思いをし続けた。 やはりこれも同様だ。文脈を読まない。趣旨を知ろうとしない。 ワンセンテンスだけに反応して、悪罵をネットに書き込んでいる。 腹は立たない。ただ本当にうんざりする。

No.179 ( 2013.6.1 )


  久しぶりに新日本プロレスをテレビで見た。勢いがついてYOUTUBEでも見た。
日本人レスラーもずいぶん様変わりしていた。

(レインメーカー)オカダ・カズチカのドロップキックは本当に凄い。
柴田と後藤の遺恨と確執もドラマチックだ。真壁や矢野も見事なプロだ。

やっぱりプロレスは最強だ。

No.178 ( 2013.5.15 )


  世界6月号に掲載された想田和弘の「日本人は民主主義を捨てたがっているのか」を読みながら、いろいろ考えた。

3月24日の参議院予算委員会における小西洋之議員(民主党)と安倍首相とのやりとり(安倍首相が「クイズのような質問は生産的ではない」と 発言したことが大きく報じられた)と、その後のネットにおける安倍擁護の書き込みなどを例にあげながら、 首相は凡人でかまわない(そのほうが親しみが持てる)との思想的傾向が、今のこの国には広がっているのではないかとの仮説を想田は提示する。

そういえばアイドルが月並みの容姿や歌唱力でもOK(むしろ好ましい)となったのはいつからだろう。 ふと思いついてAKB48のデビュー年を調べてみた。2005年だ。そして安倍第一次内閣は2006年。うーむ。僕は唸るばかりだ。

話は飛ぶようだけど(実は飛んでいない)藤岡利充が監督した「立候補」は必見。 ウエブサイトはこちら。コメントを寄せたので、その一部を以下に貼ります。

  傑作だ。ラストの秋葉原のシーン。群衆の罵声を浴びながら踊り続けるマック赤坂の姿に
  泣きたくなった。


No.177 ( 2013.5.3 )


  どこに行っても人が多い。 街を歩くたびにうんざりする。でも家にいれば(このところ憲法がらみで新聞などで発言が多かったので)、 ネットに書き込まれた「非国民」だの「北へ帰れ」だの「ブザヨ」などの書き込みばかりでうんざりする。

だからふと思いついた。国を分ければいい。 原発とかTPPとか憲法とか死刑問題とか安全保障とか、区分の基準はたくさんあるけれど、ある程度の傾向はある。

とりあえずは3つくらいでだいぶすっきりする。 僕の属する国はたぶんいちばん人口が少ないから、首都は思いきり田舎でよい。 本が売れなくなるって?どうせ非国民だとか北へ帰れなどと書きこむような人は僕の本など買わないさ。

No.176 ( 2013.4.21 )


  テロの定義は、直接的な暴力行為を働きながら、 その脅威によって特定の政治目的を達成しようとする行為だ。 暴力行為や破壊行為だけではテロとは呼べない。 だから秋葉原の連続殺傷事件や池田小事件などをテロと呼ぶ人はいない。

ボストンの爆破事件について、日本とアメリカのメディアは容疑者を特定する前からテロという呼称を使っていた。 オバマ大統領も公式にテロとスピーチした。 でも犯行声明もなければ犯人も特定できていないこの状況で、これがテロなのか単なる爆破事件なのかの判別はできない。 自分たちを疎外するアメリカ社会に報復してやろうと短絡的に考えただけなのかもしれないのだ。

容疑者とされる兄弟の兄は殺害され、弟の取り調べはこれから始まる。 チェチェンやイスラムなどの記号が取りざたされるけれど、実際のところはまだわからない。 でも一つだけ確かなこと。もしこれがテロならば、社会の不安と恐怖が高まったという意味では、その目的は半ば達成されている。

No.175 ( 2013.4.13 )


  2008年6月、イタリアのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で、 女子短大生6人が書いた落書きが見つかったとして大きな騒動になった。 その後に他の大学の学生や高校の野球部監督などの落書きも特定され、 該当者に対しては停学や解任などの厳しい処分が下された。

当の女子大生たちは短大の学長とともにフィレンツェ市役所を訪れて泣きながら謝罪し、 「わざわざ謝罪に来るなんて」と関係者を当惑させた。 イタリアの新聞は、「解任や停学はやり過ぎ」(コリエレ・デラ・セラ紙)、 「集団責任を重んじる日本社会は若い学生にも容赦をしなかった。 日本のメディアによる騒ぎは過剰だ」(メッサジェロ紙)などと報じたという。 なぜなら落書きは彼らだけではない。 大聖堂の壁は世界中から訪れた観光客たちの落書きでびっしりと埋められている。 もちろんだからといって、落書きが良いことのはずはない。 世界遺産なのだ。いけないことだと思う。 でもテレビニュースや新聞がこれほどに大きく取り上げ、 ネットでは「日本の恥」とか「国外追放」などと大騒ぎされるほどにいけないことだったのだろうか。

神戸大学の学生がUSJで迷惑行為・危険行為を繰り返していたとの報道に接しながら、 また同じことが繰り返されていると感じている。 その後に同志社大学や関西外国語大の学生も同じような迷惑行為をしていたことが発覚したとして、 大学側はそれぞれ学生の処分を検討しているという。 ネットでは当たり前のように彼らの名前や顔写真が晒されている。 若い世代は時に羽目を外す。大人たちが眉をひそめるようなことをしたくなる。 僕や僕の友人たちもそうだった。今にして思えば相当に無軌道なことをかなりやった。 尾崎豊は10代半ばの時にバイクを盗んだり校舎の窓ガラスを割った自分たちを歌にした。 もしも今ならば、やはり全国的なニュースになってネットで名前や顔を晒されるのだろうか。

多数派として誰かを叩きたい。少数派を見つけたい。少しでも全体と違うことをしたら許さない。 叩いて鬱憤を晴らしたい。そんな意識が社会全体に広がっている。 「水に落ちた犬は叩け」が加速している。だから水に落ちたくない。多数派の一人として行動したい。 周囲と違うことをしたくない。そんな意識も当然ながら拡大する。 つまり同調圧力が日々強化されている。とても息苦しい。とても不愉快だ。

No.174 ( 2013.4.8 )


  保健所からイヌやネコを救出するアニマルシェルターのライフボートから、
生後4カ月の雑種犬をもらってきた。

クマみたいだけど女の子。名前はまだない。



No.173 ( 2013.3.18 )


  3月14日、僕は参議院会館の一階講堂にいた。 民主党の有田芳生参院議員が呼びかけた「排外・人種侮蔑デモに抗議する国会集会」に参加するためだ。 チラシには以下のように書かれている。

「在特会」(在日特権を許さない市民の会)などによる異常デモが、東京・新大久保(2月9日)、 大阪・鶴橋(2月24日)で行われました。そこでは「朝鮮人 首吊レ 毒飲メ 飛ビ降リロ」 「よい韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「ハヤククビツレ チョウセンジン」(新大久保)「鶴橋大虐殺」(鶴橋)などが主張され、 「殺せ 殺せ 朝鮮人」といったシュプレヒコールが繰り返されました。 3月31日には「新大久保排害カーニバル」なるデモが再び行われる予定です。韓国や北朝鮮との間でいくら国際問題があろうとも、 在日韓国・朝鮮人に対して殺人教唆する行為は、公共の平穏を乱し、人間の尊厳を傷つけるもので、決して許されるものではありません。 ここに国会議員有志が抗議集会を行い、排外主義、レイシズム(人種差別)の広まりを押しとどめる意志を表明いたします。

会場ではまず、2009年に彼らが京都朝鮮第一初級学校の校門前で行った差別発言の映像が上映された。 第一初級学校とは要するに小学校だ。幼稚園も併設されている。 そこに現れた在特会のメンバーは、「朝鮮学校、こんなもんは学校でない」「スパイの子供やないか」「北朝鮮のスパイ養成機関、 朝鮮学校を日本から叩き出せ」などとマイクを使って怒鳴り続けた。もちろん校舎の中には子供たちがいる。 じっと息を殺して聞いていたはずだ。久しぶりに心の底から腹が立った。あまりにも醜悪だ。

映像上映後、「ネットと愛国」を書いた安田浩一が「彼らは右翼ではなくレイシストであり、絶対に放置してはならない」と発言し、 彼らと裁判闘争を続ける上瀧浩子弁護士や金尚均龍谷大学教授などが実情を訴え、新右翼団体一水会の鈴木邦男最高顧問が 「日の丸が泣いていました」と言い、木村三浩一水会代表が「彼らはレイシストですらない」と発言した。 最期にマイクを渡された僕も同意見だ。彼らは右翼ではない。保守でもない。弱者を見つけて攻撃して溜飲を下げたいだけの集団だ。 でも考えるべきは、彼らがこれほどに勢力を持った理由だ。このコラムでも何度も書いているけれど、日本社会全体の集団化が進んでいる。 集団は異物を排斥したくなる。敵を見つけたくなる。

つまり問題は在特会そのものだけではなく、彼らを醸成する今のこの国の雰囲気だ。会場には国会議員も多数来ていた。 でも自民党議員は一人もいない。生保バッシングを繰り広げた片山さつき参院議員は、かつて彼らのデモに参加したことがある。 昨年の衆院選のときは、安倍晋三自民党総裁を応援する日の丸の小旗が乱舞した。 2月に政府は高校無償化から朝鮮学校を除外することを決定し、大阪や神奈川など7都府県は朝鮮学校への補助金支給も見送った。 川崎市は使わない補助金で拉致問題関連の著作や資料を購入するという。阿部孝夫市長は会見でこう言った。 「抗議の意志を込め、(朝鮮高校の)生徒の各家庭に現物を配分する」。 3月17日に防衛大学の卒業式で安倍首相は、「我が国の領土・領海・領空に対する挑発が続いている。 現場で起きていることは今そこにある危機だ」と発言した。そもそも在特会が発足した2007年は、安倍第一次内閣の時期だった。

なぜ彼らは現れたのか。それは自明だ。もちろん自民党政権だけに問題があるわけではない。政治とは政治家と国民との相互作用だ。 彼らのこんな政策を支持する人たちが増えつづけている。この国の国民たちの多数派と何かが共振している。 とても嫌な何かだ。とても危険で陰湿で醜悪な何かだ。

No.17 ( 2013.2.19 )



  この写真集こそが北朝鮮の真実である、というつもりは毛頭ない。 真実とはそれ自体多面的なものであり、どこに眼差しを向けようとも、それらは無数の真実の一面でしか有り得ない。

  「隣人」には明確な意図も介在している。「違和感ではなく共感を拾い集めること」。 マスメディアの情報に偏りがあるのと同様に、この写真集にも一定の偏りがある。 そのような前提で見ていただいた方がむしろ安全であろう。


  引用したのは、初沢亜利の写真集隣人。 38度線の北で、 本人が書いたあとがき「滞在記2010-2012」の一部。

  北朝鮮の市井に生きる人たちを被写体にしたこの写真集のテーマは、まさしくタイトルが示している。 刊行は、「実質的なミサイル」発射騒動でこの国が大騒ぎしていた昨年12月。とても重要な一冊だ。

  写真は過剰な説明をしない。だからこそ見る側は考える。想像する。情報を多角的に考察する。 リテラシーの観点からも、きわめて重要なメディアだ。本人からのメールも以下にコピペする。


今回の写真集は、森さんのA.A2から学んだ方法論を自分なりに具現化したものです。 困難に思われる相手こそ正攻法で正面から交渉することで門戸は開かれ、内側に入ると、 そこには静かな時間が流れていることを、身を持って実感しました。



No.171 ( 2013.1.31 )


  パソコンを買い替えてしばらく経つ。ドキュメントに「江頭85 さん。」のタイトルで文書が記録されている。 開けば「あなたのユーザーIDは」との記述の後に、8桁の数字が並んでいる。これを保存した時期は買い換えてすぐ。 明らかにパソコン設定の際に登録したIDなのだと思うけれど、何のIDなのかわからない。だいたい「江頭85 さん。」の意味が分からない。

  パソコンに限らず身の回りにはIDとかパスワードだらけ。まさしくパスワード社会だ。 でもそのほとんどが今となっては分からない。思い出す手立てもない。本当に困る。ほとんどの人は困っていないのだろうか。

No.170 ( 2013.1.18 )


  いがらしみきおの「かむろば村へ」が、ちょっとありえないくらいに面白い。 「羊の木」や「I【アイ】」もすごかったけれど、「かむろば村へ」の面白さは圧倒的だ。 全部読みきってしまうことが惜しいので、毎日少しずつ読んでいる。

並行して読むのは「イカの心を探る」(NHKブックス)と「大人の時間はなぜ短いのか」(集英社新書)と「ダンゴムシに心はあるのか」(PHPサイエンス・ワールド新書)。 何か偏っている。いまはそういう時期。

No.169 ( 2013.1.6 )


  明けましておめでとうございます。ただ実は今年は、去年に引き続き喪中です。 でも喪中欠礼のお詫びを出さなかったので、かなりの数の方から賀状をいただいた。申し訳ありません。 ただどちらにせよ、年賀状のやりとりはやめようかなとここ数年思っています。

  1月11日に紀伊国屋書店から「虚実亭日乗」が刊行されます。A3文庫も是非読んでください。 全体的な推敲に加え、下巻で新章を書きおろしました。

  今年もよろしくお願いします。



No.168 ( 2012.12.16 )


  今日の日付は15日。投票日前日。何も手につかない。ただぼんやりしている。 何をする気にもなれない。だから梶井基次郎の以下の描写を引用する。

  傾斜についている路はもう一層軟かであった。しかし自分は引返そうとも、立留って考えようともしなかった。 危ぶみながら下りてゆく。一と足下りかけた瞬間から、既に、自分はきっと滑って転ぶにちがいないと思った。 ――途端自分は足を滑らした。片手を泥についてしまった。しかしまだ本気にはなっていなかった。 起きあがろうとすると、力を入れた足がまたずるずる滑って行った。(中略)どうして引返そうとはしなかったのか。 魅せられたように滑って来た自分が恐ろしかった。――破滅というものの一つの姿を見たような気がした。 なるほどこんなにして滑って来るのだと思った。下に降り立って、草の葉で手や洋服の泥を落しながら、自分は自分がひとりでに亢奮しているのを感じた。
  滑ったという今の出来事がなにか夢の中の出来事だったような気がした。変に覚えていなかった。 傾斜へ出かかるまでの自分、不意に自分を引摺り込んだ危険、そして今の自分。それはなにか均衡のとれない不自然な連鎖であった。 そんなことは起りはしなかったと否定するものがあれば自分も信じてしまいそうな気がした。

梶井基次郎「路上」


No.167 ( 2012.12.08 )


  杞憂。
  極端な心配性や取り越し苦労のこと。中国の杞に住んでいた男が、「いつか天が落ち、地が崩落してしまうのではないだろうかと心配して、 夜も眠れず食事もとれなくなるほどに衰弱してしまったという故事に由来する熟語。出典は『列子』。

  子供の頃に杞憂の意味を知ったとき、何と昔の人は思慮が足りないのだろうとあきれた。 でもたぶん今から数百年が経ったとき、こんな熟語があるかもしれない。

  日憂。
  極端な心配性や取り越し苦労のこと。21世紀初頭の日本の政治家やメディアや一般国民たちが、 北朝鮮が打ち上げるロケット実験の際に上空から破片が落ちてくるのではないかとか軌道が変わるのではないかと心配して、 「破壊措置命令」を発令しながら一兆円でアメリカから購入した「PAC3」や「SM3」 (二つの組み合わせで購入したのは世界でも日本だけ)を配備して大騒ぎしたという故事に由来する熟語。

No.166 ( 2012.11.21 )


  これほどの不正義と不合理がなぜまかりとおるのか。パソコンの前で映像を観ているだけの自分に腹が立つ。 なぜイスラエルはこれほどに特権的位置にい続けるのか。あまりに惨い。あまりにアンフェアだ。 シャロンの息子は、ガザをヒロシマのようにフラットにしてやると発言したという。 なぜ抗議しないのか。なぜ行動しないのか。なぜ止められないのか。

  世界中でイスラエルへの抗議デモが行われている。アメリカでも市民たちがstop the killingと声を上げている。 今日、停戦合意はなされたようだけど、同じ事態はまた起きる。これからも何度も繰り返す。言うべきだ。伝えるべきだ。 あなたがたはあまりに無慈悲だと。あまりに身勝手すぎると。



No.165 ( 2012.11.01 )


  週刊朝日の「ハシシタ」をやっと読んだ。結論から言えば、これが差別表現とは僕は思わない。 連載中止すべきではなかった。翌号に掲載された謝罪で河畠編集長は「同和地区を特定するなど不適切な記述」と書いたけれど、 それがもし理由ならば、僕の「放送禁止歌」だって絶版にしなくてはならなくなる。

要は文脈ということになるのだろうけれど、少なくとも一回目の原稿については、 被差別部落の血筋が劣悪な人格に結びついたと解釈されるような記述はない。 対象に対して親和的ならOKで批判的ならNGということなら、これはまったく筋違いだ (ただし別の意味で、僕はこの連載一回目を賞賛はできないけれど)。

なぜメディアは闘わないのか。なぜこうもあっさりと白旗を上げるのか。 このままでは60年代のタブー時代にまた戻る。とても憂慮する。

No.164 ( 2012.10.18 )


  学生時代から憧れの監督だった。名画座のオールナイトで、若松孝二特集を何度も観た。 元ヤクザだったことも有名だ。赤軍派とも関係は深い。だから怖い監督だと思っていた。でも大好きな監督だった。

  その後に会って、もっと大好きになった。医者から酒を止められているのに、会うたびに飲みに行こうよと誘われた。 作品は激しいのに、本人はいつもニコニコと穏やかな人だった。 彼の映画のトークショーでステージに呼ばれて他のゲストと僕が険悪な雰囲気になりかけたとき、そのあいだで困っていた。

  とても可愛い人だった。2009年に上梓した「マジョガリガリ」で、僕は若松のこんなエピソードを書いている。

僕にとっては盟友であるドキュメンタリー監督の佐藤真が自ら命を絶ったとき、 その「送る会」に現れたときの若松の姿を、僕はこれからも絶対に忘れない。 海外の映画祭から急遽帰国した若松は、会場である信濃町の日本青年館に、成田から直接駆けつけた。 世話人を引き受けた僕は受付にいた。開始時間に少し遅れた若松は、小走りに階段を駆け上がってきた。 そして僕を見た。はあはあと息を切らしながら、若松は言った。
「あいつ本当に死んだのか」
いまにも泣きだしそうな子供の表情だった。「はい」と頷きながら、僕も泣きそうになっていた。


  次に撮る予定の映画の構想も聞いていた。いつも必ず酒。 だから、医者の言うとおりにしないと死んじゃいますよと、冗談でよく言っていた。 そうでなければパレスチナで銃弾に頭を撃ち抜かれるか、 あるいは映画の現場で怒鳴りすぎて頭の血管が破裂するか、そのように死ぬ人なのだろうと何となく思っていた。

  だから、理由が交通事故であることが、本当に悔しい。きっと本人だって悔しいはずだ。

No.163 ( 2012.9.27 )


  沖縄にはもう何度も来ている。でもこれまではいつも自作映画の上映がらみだったので、 空港から劇場に直行して夜は酒を飲んで翌日は二日酔い気味で東京に戻るという旅程ばかりだった。 今回も自作映画「311」上映初日の舞台挨拶がメインであることに変わりはないけれど、 少し長く滞在したくなり、4泊5日のスケジュールにしてもらった。

  いろいろな場所に行った。いろいろな人に会った。 琉球新報の記者たちが主催してくれた飲み会には、競合紙の沖縄タイムスの記者やテレビ関係者など 30人以上が集まった。ちょうどこの日に岩国でオスプレイの試験飛行が行われたこともあって、 飲みながら彼らのテンションは高い。午後9時に始まった飲み会が終わったのは翌朝の午前5時だ。 しかも泡盛。ホテルの部屋に戻ったときは、さすがに意識を失いかけていた。

  今回はガマをたくさん回った。いくつものガマを回りながら、 慰霊の気配がほとんどないことに気がついた。 入口付近はかなり危険な竪穴である場合が多いけれど、出入りを防ぐようなフェンスも見当たらない。

  要するに戦争当時そのままのガマが多い。

  「那覇市内ですらいまだに地面を掘れば不発弾や遺骨がたくさん出てくる状況なので、 ガマだけを特別視しないということかなあ」
案内してくれた沖縄移住3年目の友人は、考え込みながらそうつぶやいた。

  沖縄は光と影が濃い。まるで生と死のように。 そして今もこの二つが、当たり前のように混じり合っている。 鉄の暴風の痕跡は風化していない。だからこそ平和を願う声は大きい。 でも現実は彼らを裏切り続ける。

  真暗なガマの底から地上を眺める。 眼に映る眩しい陽光と緑の葉は、67前に多くの人たちが、絶望の思いとともに眺めた光景そのままのはずだ。

No.162 ( 2012.8.19 )


  人は大地に縛られながら、世界で最も悲しい声をあげると歌ったのはポール・サイモンだけど、土地の問題は人から冷静さを奪う。 歴史の縦軸を見ても世界の横軸を見ても、この問題で多くの人が争い、多くの命が犠牲になった。

この問題を先送りにして次の世代に託したとしても、発想を変えない限りは新たな知恵など出てこない。 ならば「譲渡する」ことも一つの選択だ。 現時点において人が居住しているのなら話は別だ。 でも尖閣にしても竹島にしても北方領土にしても、現時点で日本国籍を有する人は住んでいない。 もちろんタダとは言わない。 漁業権や海洋資源、排他的経済水域などの問題については、譲渡のバーターとして、 今後見込まれる利益を分配するとか契約を交わすとか、それこそ大人の交渉が必要だ。

国土面積は世界第61位の日本は、排他的経済水域面積については世界第6位だ。韓国はもちろん、中国よりもはるかに大きいのだ。 尖閣に上陸した香港の活動家たちは、決して中国人の総意を体現しているわけではない。 イ・ミョンバク大統領のスタンドプレイを苦々しく思っている韓国人も数多い。 メディアはそうした多面性を伝えなければならないし、日本人としても抑制的に行動すべきだ。 結局のところ土地の問題は権益だ。ならば交渉は可能なはずだ。

無用な諍いや争いを回避するためならば、少しばかり領土や領海が小さくなってもかまわない。 弱腰と呼びたいのなら呼ぶがよい。私たちは自国と他国の人たちの命を何よりも大事にする。

もしもそんな判断をこの国が示せるならば、僕はそのとき本気で、この国に生まれたことを「誇り」に思う。

No.161 ( 2012.8.01 )


  国別もいいけれど、例えば綱引きとか騎馬戦とか玉入れとか、それぞれの国から一人ずつ選別して地域対抗でやればいいのに。
EU対東アジアとか。北米対中東エリア(イスラエルも含む)とか。 きっと景色が変わると思う。国や人に対しての見方も変わるかもしれない。
それはそれとしてこのニュース。

  姉を殺害したとして殺人罪に問われた大東(おおひがし)一広被告(42)=大阪市平野区=の裁判員裁判で、 大阪地裁(河原俊也裁判長)は30日、懲役16年の求刑を超える懲役20年を言い渡した。 判決は、大東被告が広汎(こうはん)性発達障害の一種、アスペルガー症候群と認定。 母親らが被告との同居を断り、被告の障害に対応できる受け皿が社会にないとして、 「再犯の恐れがあり、許される限り長期間内省を深めさせることが社会秩序のためになる」と述べ、殺人罪の有期刑の上限が相当とした。

  大東被告は小学5年生で不登校となってから、自宅に引きこもる生活を送っていた。 判決は、引きこもりの問題を姉のせいと思い込んだ被告が、姉に恨みを募らせた末の犯行と指摘。 動機にアスペルガー症候群が影響したと認定する一方、「最終的には自分の意思で犯行に踏み切った」と述べた。 また、判決は被告の態度にも言及し、「(障害の)影響があるとはいえ、十分な反省がないまま社会復帰すれば、同様の犯行に及ぶことが心配される」と指摘した。(毎日新聞 2012年07月30日)

  社会に受け皿がないし再犯の恐れもあるから、できるかぎり長く社会から隔絶するために求刑に4年をプラスする。 何だこれ。

  本来なら「アスペルガーという障害があっての犯罪だから減刑される」、 あるいは「医療刑務所などしかるべき施設で社会に適応できるように訓練する」という判決が順当のはずだ。 40過ぎまでひきこもっていた被告に必要なことは、少なくとも内省ではない。症状が悪化する可能性は高い。 しかも満期出所で被告は62歳。おそらくはその時点で、帰る家も頼れる人もいない。その後にどうすべきなのか、何ができるのか、いったい誰が考えているのだろう。 7月26日付の朝日新聞にも書いたことだけど、やっぱりこの国の刑事司法は、犯罪によって犠牲となる人や苦しむ人をできるだけ少なくしようとは、まったく考えていない。

でももっとびっくりすることは、この判決に対しての違和感を、(僕の見るかぎり)どの大手メディアもまったく表明していないことだ。当たり前のように記事になっている。

管理社会化や監視社会化の進行とともに、異物排除も急激に進んでいる。違和感が消えている。だからこそ今の刑事司法の状況がある。

No.160 ( 2012.7.28 )


  これまでに何度か書いてきたことだけど、オリンピックの開会式と閉会式が大好きだ。

もちろん競技もそれなりに観るけれど、特にここ数年の日本におけるオリンピック中継は、日本の選手の活躍ばかりにスポットが当たりすぎていて、 他国の選手の活躍がほとんどわからない。

名も知らなかった小さな国の選手。あるいは(例えば)イスラエルとイランの試合。 一昔前ならばそんな中継もあったと思うのだけど、最近はほとんどない。

もちろん日本人選手の活躍は気になる。でも他国の選手の活躍も見たい。あまりに偏り過ぎていると思うのだ。 もう一度書くけれど、少なくともアトランタ・オリンピックの時期は、そんな映像をたっぷりと見ることができた。

  開会式は終わった。あとは閉会式。 まるで「ウオーリーを探せ!」的な日本人選手ばかりに偏った中継ではなくて、もっと世界のいろんな国々の人たちの表情を見せてほしい。

No.159 ( 2012.7.18 )


  「他ならない自分たち自身が、なぜこれほどにヒートしているのだろうと首をかしげながら、でも求められるので必死に取材をしている、というような感じです」

  大津のいじめ自殺問題を取材している記者は、(まさしく)首をかしげながらそう言った。その感覚は僕にもある。 東京電力や政府に対して多くの人が抱いている「なぜ事実を隠蔽するのだ」との憤りや鬱憤が、一気に出口と標的を見つけたかのようだ。

  もちろん不正な隠蔽や揉み消しがあるならば、それは糺されねばならない。事実はできるかぎりは解明されねばならない。それは当たり前のこと。 でもネットで名前や顔や住所を晒す必要はどこにあるのだろう。報道されることは当然だとしても、これほどに毎日トップニュースで扱うことだろうか。

  イジメとは抵抗できない誰かを大勢で叩くこと。孤立する誰かを追い詰めること。 だから思う。日本全体がそうなりかけている。

No.158 ( 2012.7.4 )


  6月末の熊本「311」上映会参加の際、共同監督の綿井健陽さんと、 少しだけ足を伸ばして石牟礼道子さんにお会いしてきた。

ニコニコと微笑む石牟礼さんは童女のようで、一つひとつの言葉は詩句のように優しい。

例えば今の言葉はとても軽くなったと話すとき、 石牟礼さんは「昔の言葉は織物のように生地目があって触れば指先で感じることができたのに、 今の言葉は包装紙のようにガサガサとうるさいけれど生地目がないの」と口にする。

たくさん話した。たくさん聞いた。夢見心地の二時間弱だった。

No.157 ( 2012.6.21 )


  久しぶりの新潟で、古町の人出がすっかり減ってしまっていることに驚いた。 要するにシャッター通り。日本の津々浦々で見られる光景ではあるけれど、 子供の頃の賑わいを知っているだけに、違う街に迷い込んだかのような気分になる。

>文学は暗喩から腐っていくからさ。

これ、現代書館のウェブサイト に連載している斎藤美奈子との往復書簡(メール)で、美奈子が書いて送ってきた最近の名言。
自分がどこまでこの意味を実感しているかは疑わしいけれど、できるかぎり肝に銘じようと思いたくなるフレーズだ。 文末の「からさ。」も絶妙。

No.156 ( 2012.6.7 )


  民放のワイドショーから出演依頼の電話があったけれど、「菊地直子が過ごした愛の逃避行について」的なコメントを要望されたので、 「それを語る人は僕ではないと思います」と言って断った。

  ・・・などと書き始めると、偉そうだと思われるかな。補足するけれど、この視点を否定するつもりはまったくない。 ジャーナリスティックであったりワイドショー的であったり、あらゆる角度から呈示されて考察され、論じられることは重要だ。 でも僕は餅を売る人なので、野菜は売れない。売りたくても在庫にない。野菜が欲しいのなら八百屋さんに行ってほしい。

  事件直後には彼らを残忍や狂暴などと形容していた人たちも、どうやらそうではないらしいと気がついてきた。 一人ひとりはとても純真で誠実な人たちだ。だからこそ洗脳やマインドコントロールなどの言葉を使いたくなる。 その図式に嵌め込んで納得したくなる。その論理的帰結として、洗脳やマインドコントロールを彼らに施した絶対悪の質量が必要になる。

でもそこで踏みとどまりながら、さらに考えるべきだ。もしも多くのメディアが伝えるように俗物的な欲望にまみれた卑劣で詐欺師的な心性を持つだけの男なら、 なぜ愛人をたくさん侍らせて教団内カリスマとしてちやほやされる地位を失うことになる事態を画策したのか(彼はそれを予測していた)。 動機は何なのか。何を思い、何を目的としてサリン散布の指示を下したのか。暴走のメカニズムはどのように駆動して、どのように伝播し、最後にはどのように働いたのか。

  平田信出頭の際にも、「背後に闇の組織がある」とか「金正日死去が関係している」とか大真面目に主張する人がかなりいたけれど、 そんな背後関係があるならば、もっと早く警察は身柄を確保していたはずだ。日本の警察はそこまでバカじゃない。まったく逆だ。 むしろ背後に何もないからこそ、17年間も潜伏できたのだ。

この謀略史観的な見方は、オウムに常に付随する。真相が明らかにされていないとの不安が、多くの人の意識下でいつまでも駆動しているからだ。 だからわかりやすい構図が欲しくなる。その図式に嵌め込んで納得したくなる。

ワイドショー的展開と謀略史観的見方。このふたつは、事件直後のオウム報道における大きな特徴だった。 テレビを観ながら、17年間かけて結局は同じ位置にいることに、少しばかり(いやかなり)驚いている。

極私的メディア論 第67回 あえて再度反論する(『月刊『創』5月号掲載)
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極私的メディア論 第66回 誘導される民意(『月刊『創』4月号掲載)
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極私的メディア論 第65回 論争以前の二人(『月刊『創』3月号掲載)
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No.155 ( 2012.5.16 )


  5月13日に行われた「シンポジウム─浅間山荘から四十年 当事者が語る連合赤軍」は、とても意義深い催しだった。

  連合赤軍事件の本質は、あさま山荘ではなく山岳ベース事件にある。でもあまりに凄惨すぎるため、多くの人々は目をそむけようとする。 わかりやすく加工しようとする。事件直後のメディアは、指導者の位置にいた森恒夫と永田洋子の二人が、異常な支配欲や権勢欲、 さらには嫉妬や保身など個人的な欲望を燃料にしながら他のメンバーたちの心身を支配して互いに殺し合う閉塞的な状況を作りあげたなどと要約し、 裁判も大筋としては、この構図に合わせるかのように進行した。

  それから月日は流れ、二人の指導者はすでにこの世にいない。森は逮捕から一年経たないうちに拘置所で自殺して、死刑判決が確定した永田は昨年獄死した。 でもこの間に、逮捕された元兵士たちは徐々に出所して、そのうちの何人かは重い口を開き始め、事件の全貌が多くの視点から明らかになりつつある。

  なぜ事件は起きたのか。なぜあなたたちは同志への総括を続けたのか。あなたたちが処刑されなかった理由は何なのか。森や永田に対して今は何を思うのか。

  これらの質問に対して4人の元兵士(二人は革命左派で二人は赤軍派)は、マイクを手に絶句する。あるいは考えこむ。互いに意見が食い違う。必死に記憶を振り絞る。

  初めての処刑は革命左派によって行われた。永田洋子が森恒夫にどうすべきかと相談したとき、「処刑すべき」と森は答え、永田たち革命左派は実践した。 その報告を聞いた森は動揺し、赤軍派の側近だった坂東国男に、「まさか本当にやるとは・・・」的なことを口走っている。

森や永田に支配され一方的に強制されたのではなく、むしろ自分たちが森や永田を追い込んだ要素もあるのかもしれないと語る元兵士たちの言葉は重い。 『A3』を書いた僕としては、まさしくデジャヴ的な証言だ。すべての組織共同体が内包する普遍的な負のメカニズムであり、何度でも繰り返す歴史的な過ちでもある。 マイクを握りながら4人はつらそうだ。じっと俯いている。でもこの場から逃げない。沈黙しない。必死に記憶をたどっている。言葉を紡ごうとしている。

そんな光景を眺めながら、オウム事件の場合には2035年に、このようなシンポジウムが行われるだろうかと考える。おそらく、というか間違いなく無理だ。 だってオウムの場合は、主要な事件の当事者のほとんどに対して、死刑判決が下されている。 精神が崩壊したまま被告席に座らせられ続けた麻原も含めて、質問に答えられる人がいない。

だから考える。もしも連合赤軍事件がオウム後に起きていたら、彼ら革命兵士の多くは、当然のこととして死刑判決を受けていたはずだ。 厳罰化はそれほどに進んでいる。それによってこの社会は、学んだり考えたりする機会を失い続けている シンポジウムはこれからも継続して行われる。ぜひ多くの人に参加してほしい。元兵士たちの証言を聞いてほしい。

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極私的メディア論 第67回 あえて再度反論する(『月刊『創』5月号掲載)
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極私的メディア論 第66回 誘導される民意(『月刊『創』4月号掲載)
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極私的メディア論 第65回 論争以前の二人(『月刊『創』3月号掲載)
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No.154 ( 2012.4.23 )


  拙著『A3』に対する脱カルト協会などからの抗議について、あるいは抗議の主体である滝本太郎氏と青沼陽一郎氏との論争については、 「創」連載の「極私的メディア」3~5・6月号で書きました。編集部の了解を得たので、このウェブサイトでも、まずは3月号と4月号を、 どなたにも読めるようにしました(5・6月号は数日後に)。

  掲載した文中にもあるように、彼らについての言及は、基本的にこれを最後にします(ただし青沼氏の「それも嘘ですから」については、 今後もそう断言した根拠を求め続ける。このまま返答がないのなら、新たな対応を考える)。

  数行前に「論争」と書いたけれど、そもそも彼らの抗議は、『A3』と森達也に対してネガティブな傷を与えることを目的とした誹謗であり、 結果として論争にすらならなかったと見なしています。ならばなぜ、ここに掲載するかといえば、「森は『A3』において麻原無罪を主張している」との彼らの見方が、 オウム後にこの社会が陥った二元論的な思考様式をとても端的に示していると同時に、「弟子たちは死刑にすべきではない。 彼らを洗脳して犯罪に加担させた麻原だけを死刑にすべき」との彼らの主張を、今のオウムをめぐる劣悪な考察のひとつとして取り上げるべきと考えたからです。

  『A3』に書いたように、早川さん、林さん、岡崎さん、新実さん、広瀬さん、そして中川さんの誰ひとりとして、処刑されるべきではないと僕は考えます。 他の確定死刑囚も同様。そして裁判途中から完全に精神が崩壊した麻原も例外ではない。 麻原一人だけを悪者にしたい彼らにとって、森や『A3』を攻撃することは持論の正当性を強調する手段でもあるのだろう。 でもだからといって、違う主張や意見を、あるいは他者を、これほどに口汚く罵倒することは許されないはずだ。 それは言論ではないし主張でもない。あまりに醜い。ネットの落書き以下だ。

  とにかく『A3』は僕にとって、渾身の一冊です。 ごまかしや捏造など一切ない。彼らの抗議が正当かどうか、麻原無罪などを本当に主張しているかどうか、あとは読む人に判断してほしい。

極私的メディア論 第66回 誘導される民意(『月刊『創』4月号掲載)
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極私的メディア論 第65回 論争以前の二人(『月刊『創』3月号掲載)
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No.153 ( 2012.4.16 )


  4月13日、袴田事件で死刑が確定した袴田巌死刑囚の第2次再審請求において、弁護側推薦の鑑定人のDNA型鑑定の結果が判明した。 犯行時の着衣についていた血痕のDNA型は、袴田本人とは一致しなかった。つまり証拠ではない。
  そもそもこの血染めの着衣は、事件から一年以上が過ぎてから、犯行現場となった味噌製造工場の味噌タンク内から発見されたものだ。 死刑判決の際に最も有力な証拠とされたこの着衣が本人のものでないということは、警察か検察が、事件後に証拠を捏造した可能性がきわめて高いことを示唆している。
  検察側推薦の鑑定人の鑑定結果はまだわからないが、もしもこれも一致しなければ、冤罪であることはほぼ明らかになる。獄中から彼が息子に送った手紙の一部を、以下に抜粋する。

息子よ。
  お前が正しいことに力を注ぎ、苦労の多い冷たい社会を 反面教師として生きていけば、遠くない将来にきっとチャンは、懐かしいお前のところに健康な姿で帰っていくであろう。
  そして、必ず証明してあげよう。お前のチャンは決して人を殺していないし、一番それをよく知っているのが警察であって、一番申し訳なく思っているのが裁判官であることを。
チャンはこの鉄鎖を断ち切って、お前のいる所に帰っていくよ。


彼は既に45年以上も拘置所に収監されている。意識の混濁は激しいようだ。だから思う。心の底から思う。一日も早く救いたい。自由にさせてあげたい。 お願いです。自由にしてください。太陽の光を浴びさせてください。草や花のにおいを嗅がせてください。 肉親や知人に触れさせてください。当たり前の判断を示してください。

No.152 ( 2012.4.10 )


  電車で、購入したばかりのHUNTER×HUNTER最新刊を読んでいたら泣きそうになって、しかも乗り過ごした。

No.151 ( 2012.3.31 )


  タイは暑かった。屋台の料理はどれもおいしかった。2キロ太って帰国して数日が過ぎた29日朝、三人の死刑囚が処刑された。

  その後に記者会見した小川敏夫法相は、「犯罪に対してどのような刑罰で臨むかは国民が決めること。 刑罰権は国民にあると思っている。国民の大半が死刑を支持し、とりわけ国民の声を反映させる裁判員裁判でも死刑が選択されている。 こういったことを重要な要素と考え、法律の規定通り法相の職責を果たすべきだと判断した」と述べたという。

  不思議なコメントだ。刑罰権は国民に帰属しない。それは国家の否定だ。 もちろん法相が口にした「刑罰権は国民にある」の意味は、国家を否定することではなく、死刑存廃は国民が決めるとの意味なのだろう。 そう解釈するしかない。多くのメディアは「国会会期中の執行は異例」との記述をしていたけれど、要は年度末だからだ。 道路工事が増えることと実相は変わらない。

  ・・・ここまで書いて、次の言葉をつづれない。国民の5人中4人が死刑を求めている。 僕はそんな国に生まれた。ただその事実に圧倒されている。

No.150 ( 2012.3.19 )


  19日から25日まで、タイで行われる映画祭に参加してきます。帰国は25日深夜の予定。
携帯は繋がるとは思うけれど高額なので、できればメールでお願いします。
バンコクの平均気温は34度。空港までどんな服装で行くか思案中。行ってきます。

No.149 ( 2012.3.2 )


  3月3日から『311』公開。いろいろ周囲が騒がしい。取材の依頼もかなり多い。本来なら答えるべきじゃない。 正確には「べき」ではなくて、作品について作品以外の場で語りたくない。作品が全て語っているはずだ。
でもこの作品は、ある程度の補足が必要な作品なのかもしれない。そう考えて、今は無理矢理に言葉を絞り出している。でもそろそろ沈黙しないと。 以下は共同監督の一人から、今朝送られてきたメールの一部。

> 前にも言ったと思いますが、この映画、相当にヤバいです。だからこそ存在理由があるのだと、今は思っています。


 そして以下は、創で僕が書いた反論について、滝本太郎氏がやっと触れたブログの一部。

> 今は諸般の事情から、とても対応する時間がないです。おって、するならしますからご容赦を。

 ならば待ちます。「するならしますから」は意味不明だけど。逃げる伏線とは思わないようにします。とにかく待ちます。

> 追加がなければ、ないのかな、と考える外なくなりますが。

 ご自由に。あなたがたにこれ以上反論しない理由は創で書いた。これ以上は書きません。
むしろ「麻原無罪を主張している」とのあなたがたの抗議の根幹について反論したのだから、まずはそれについての対応と見解を、あなたがたが示すべきです。
相変わらず青沼陽一郎氏から「それも嘘ですから」についての返答がないので、以下は引き続き貼ります。

  滝本太郎様 青沼陽一郎様 あるいは脱カルト協会の理事やその他多くの皆様

およそ半年にわたって続いてきたあなたがたの抗議、あるいは攻撃、あるいは悪罵に対しては黙殺し続けるつもりではあったけれど、 あまりに度が過ぎるので、これが最後のつもりで月刊誌『創』3月号に反論を書きました。滝本さまと青沼さまのお手許には届いているはずです。 僕が沈黙しているあいだは、それぞれのブログであれほどの嘲笑や悪罵を書き連ねてきたのに、今のところまったく触れてこない。

僕はもうこれ以上あなたがたに言及するつもりはないけれど、まさかそちらも黙り込むとは予想していなかった。反論できないのですか?  特に青沼さまは、『A』がテレビから排除されて映画になった経緯について「それも嘘ですから」と断定した根拠を、しっかりと明示してください。 あれほどに罵倒して記者会見まで開きながら、一回の反論で黙り込むなんてあまりに情けない。もしも反論できないのなら、「自分たちが間違っていた。 本を精読しないまま抗議した」ときちんと表明しなさい。それぞれ弁護士とジャーナリストという立場なのだから、その程度はするべきです。

世界は広い。そして人は多い。様々な意見や違う視点があることは当たり前だ。だからこそ議論をしたかった。こちらにも思い込みや間違いはあるかもしれない。 視野狭窄に陥った瞬間があるかもしれない。修正すべき点があるならば修正する。討論したかった。違う意見を尊重したかった。なるほどと納得したかった。 納得してほしかった。少なくとも僕は彼ら(滝本・青沼)に対して、討論は拒否しながらネットで、 「羞恥心はないのでしょうか」とか「って、アホか」とか「卑劣な嘘」などの言葉は使わない。これまで使ったこともない。(創3月号から引用)

正当な根拠のある抗議や批判ならば、こちらも謙虚に受け取る。しかしあなたがたは、自分たちが批判されている『A3』に傷を付けることだけを目的にしている。 だからこそ「麻原無罪や弟子が勝手にサリンを撒いたと主張している」などと存在しない論点を掲げて、討論を提案すれば筋が違うと逃げ、ネットで悪罵を書き連ねる。 そのレベルに自分を落とすつもりはない。とにかく以降は黙殺する。でも“けじめ”だけはつけなさい。

2012.2.20 森達也   


No.148 ( 2012.2.20 )


  滝本太郎様 青沼陽一郎様 あるいは脱カルト協会の理事やその他多くの皆様

およそ半年にわたって続いてきたあなたがたの抗議、あるいは攻撃、あるいは悪罵に対しては黙殺し続けるつもりではあったけれど、 あまりに度が過ぎるので、これが最後のつもりで月刊誌『創』3月号に反論を書きました。滝本さまと青沼さまのお手許には届いているはずです。 僕が沈黙しているあいだは、それぞれのブログであれほどの嘲笑や悪罵を書き連ねてきたのに、今のところまったく触れてこない。

僕はもうこれ以上あなたがたに言及するつもりはないけれど、まさかそちらも黙り込むとは予想していなかった。反論できないのですか?  特に青沼さまは、『A』がテレビから排除されて映画になった経緯について「それも嘘ですから」と断定した根拠を、しっかりと明示してください。 あれほどに罵倒して記者会見まで開きながら、一回の反論で黙り込むなんてあまりに情けない。もしも反論できないのなら、「自分たちが間違っていた。 本を精読しないまま抗議した」ときちんと表明しなさい。それぞれ弁護士とジャーナリストという立場なのだから、その程度はするべきです。

世界は広い。そして人は多い。様々な意見や違う視点があることは当たり前だ。だからこそ議論をしたかった。こちらにも思い込みや間違いはあるかもしれない。 視野狭窄に陥った瞬間があるかもしれない。修正すべき点があるならば修正する。討論したかった。違う意見を尊重したかった。なるほどと納得したかった。 納得してほしかった。少なくとも僕は彼ら(滝本・青沼)に対して、討論は拒否しながらネットで、 「羞恥心はないのでしょうか」とか「って、アホか」とか「卑劣な嘘」などの言葉は使わない。これまで使ったこともない。(創3月号から引用)

正当な根拠のある抗議や批判ならば、こちらも謙虚に受け取る。しかしあなたがたは、自分たちが批判されている『A3』に傷を付けることだけを目的にしている。 だからこそ「麻原無罪や弟子が勝手にサリンを撒いたと主張している」などと存在しない論点を掲げて、討論を提案すれば筋が違うと逃げ、ネットで悪罵を書き連ねる。 そのレベルに自分を落とすつもりはない。とにかく以降は黙殺する。でも“けじめ”だけはつけなさい。

No.147 ( 2012.1.25 )


  もし撮れるのなら、座礁した豪華客船の船長を叱り飛ばして英雄になった沿岸警備隊長ではなく、
叱り飛ばされた船長のほうを撮りたい。

No.146 ( 2012.1.10 )


  死刑判決が確定したオウム幹部のうち、僕は6人に会っている。 麻原は精神障害を起こしているのではないかとの僕の見立てについて、 彼らの多くは面会時に、決して積極的に同意はしなかった。 「詐病ではないか」と言われたこともある。 「なぜそう思うのか」と訊けば、「その程度はやる人だから」とのニュアンスで答えられたことを覚えている。

  被告席で大小便を洩らす。あるいは実の娘の眼の前で自慰行為に耽る。 普通の精神状態ならありえないと見なすべきこれらの行為も、彼らにすれば「尊師ならその程度は(簡単に)やる」との文脈で整合する。 2005年に麻原に面会した中島節夫精神科医が、顔や両瞼がピクピクと痙攣し続ける線維束性攣縮は意識的には困難な動作であるとしたうえで、 「脳の前頭葉から側頭葉にかけての領域が委縮しており、アルツハイマーの末期と同様の症状に陥るピック病も含めて、器質性脳疾患の疑いが強い」 と所見を表明したときも、「尊師なら線維束性攣縮くらいは簡単にやるだろう」と彼らは考えたはずだ。

  もちろん「その程度はやる」の意味は、「そういう悪辣なことをやる」と「そういう常人には不可能なことをやる」の二つの意味がある。 そしてこの二つは、「自分たちが身も心もささげた教祖が普通人と同じ規格のはずがない」との願望が根底に駆動しているという意味では共通している。 言い換えれば「尊師ならやりかねない」は、「麻原が最終解脱者であることを信じる」ことと、 あるいは「A3」のエピローグで中川智正さんが言った「…化けものです」と、位相はほぼ同じなのだ。

  ならば否定せねば。ただの人間だ。最終解脱などありえない。だからこそ無残に精神が崩壊した。その現実を見据えなさいと伝えたい。

No.145 ( 2012.1.1 )


  年末から風邪をひいて、ずっと臥せっていた。仕方がないのでテレビをかなり見た。 本当に劣化を実感する。特にバラエティ。あの笑い声とか驚く声とか、本当に必要なのだろうか。 加算しないことには視聴率が伸びないことは、かつて僕もさんざん体験した。 悔しいが減算すれば視聴者はチャンネルを変える。でも今のこの状況は、あまりに加算について億面がなさすぎる。

  オウムの平田信容疑者が出頭したことについて江川詔子氏が1日朝のフジテレビで、 「年明けにも執行されるかもしれないという教祖の死刑がですね、かなり遅れるという、 そういう意味を持つと思います」とコメントしている(引用ママ)。

  そこまで殺したいのかと嘆息すると同時に、彼女はオウムに襲撃された被害者でもあり、 坂本弁護士一家殺害事件については遺族的な心情も持つ当事者なのだから、 これほどの憎悪もある意味で仕方がないのだろうとは思う。問題の根源は、 報復感情に駆られた当事者的な感情を吐露する彼女のコメントを、 「ジャーナリスト」の肩書で紹介するメディアなのだ。

  他にも弁護士とか漫画家とか、襲撃された被害者でありながら、 そのコメントがその肩書とともに消費された人は大勢いた。 その帰結として被害者感情が全国民レベルで共有された。 こうしてオウム以降、厳罰化が激しく進行し、麻原法廷は一審だけで死刑が確定するという異常な事態になった (多くの人は異常とは認識していないけれど)。

裁判がまともに行われないのだから、麻原がなぜサリンを撒けと命じたのか、 その動機や理由がわからない。だからこそ不安や恐怖が刺激される。 だから善悪二元化が進行し、厳罰化はさらに促進される。・・・こうして負のらせん構造に、 1995年以降のこの国は陥った。

平田は長官狙撃事件など、いくつかの謎のカギを握るキーパーソンの可能性があると言われている (僕はその可能性は薄いとは思うけれど)。ならばじっくりと取り調べて裁判を適正に行うことは当たり前だ。 それは彼らのためではなく、僕らのためなのだ。




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